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占い師が“女の子だ”と言った日、夫と姑は“私の命”を終わらせようとした

作者: 熾星
掲載日:2026/08/19

 あの夜、私は悠斗に誘われて、彼の友人たちとの飲み会に参加していた。


 途中で悠斗が電話に出ると言って席を外すと、見知らぬ男が近づいてきた。最初は世間話だったのに、次第に距離を詰められ、「旦那さん、しばらく戻ってこないみたいだし、このあと二人で飲み直さない?」と何度もしつこく誘われた。


「結構です。夫を待っているので」


 それでも男は諦めず、今度はホテルに行こうとまで言い出した。私がはっきり断って席を立とうとした瞬間、離れた場所から突然笑い声が上がった。


 悠斗と友人たちが出てきた。


「悠斗、お前の奥さん、ちゃんとしてるじゃん。金払って試した甲斐あったな」


 私は何を言われているのか、一瞬理解できなかった。


 悠斗は悪びれる様子もなく笑っていた。


「最近、浮気する人も多いだろ? ちょっとした貞操チェックだよ。本気にするなって」


 別の友人が面白がるように口を挟んだ。


「でも、神崎先生の話じゃ、お腹の子は女の子なんだろ? 跡取りが欲しい高橋家としては、そっちのほうが問題か」


 私はその場に立ったまま、悠斗の顔を見つめた。


 あの瞬間、この人たちが急に知らない人間に見えた。


 そこまで私を試したいのなら、もういい。


 私だって、いつまでも物分かりのいい妻を演じるつもりはなかった。



1



 妊娠してから、つわりは日に日にひどくなっていった。最初は油の匂いで気分が悪くなる程度だったのに、そのうち白いご飯さえ喉を通らなくなった。


 妊娠を知った義母は「一人じゃ大変でしょう」と言って、埼玉にある私たちの2LDKのマンションへ一時的に住み込むようになった。


 その日の午前中も、寝室から出た途端、キッチンから漂ってきた焼き魚の匂いに胃がひっくり返りそうになった。口元を押さえて洗面所へ駆け込み、胃の中が空になるまで吐いて、ようやく顔を上げた。


 物音に気づいた悠斗がすぐに追いかけてきて、水を差し出した。口をゆすいでベッドの端に腰を下ろすと、胸の奥に残っていた吐き気が少しずつ引いていった。


「奈緒、大丈夫? 最近、本当につらそうだな」


 私は頷いただけで、話す気力もなかった。


 妊娠がこんなにつらいものだとは思っていなかった。それでも、お腹の中にいる子のことを考えれば、なんとか耐えられると思っていた。


 悠斗は隣に座ったまま、しばらく黙っていた。


「そんなにつらいならさ……今回は、諦めてもいいんじゃないか?」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 次の瞬間、私は悠斗の頬を平手で叩いていた。


「自分が何を言ってるか分かってる? あなたの子でもあるんだよ。私がつわりで苦しんでるからって、それだけで中絶しようって言うの?」


 悠斗は頬を押さえ、しばらく険しい顔をしていた。それでも怒鳴り返すことはせず、無理に笑顔を作った。


「冗談だよ。ほら、今は吐き気のこと忘れてるだろ? 気を紛らわせようと思っただけ」


「そんな冗談、全然笑えない。二度と子どものことでふざけないで」


「分かったって。もう言わないから」


 悠斗は立ち上がって布団を整え、いつもの優しい夫に戻ったような顔をした。


「少し休んでな。母さんが昼飯作ってるか見てくる」


 ドアが閉まったあと、私はもう一度横になった。


 このときはまだ、あの言葉が冗談ではなかったことを知らなかった。



2



 悠斗が寝室を出ると、義母がすぐキッチンから近づいてきた。水でも飲もうとドアまで行った私は、その声が急に小さくなったことに気づき、その場で足を止めた。


「どうだった? 奈緒さん、承知したの?」


「するわけないだろ。いきなり平手打ちされたよ。母さん、声落として。こっちにも非があるんだから。せっかく妊娠したのに、突然中絶しろなんて言われたら普通は怒るよ」


 義母はまるで納得していなかった。


「私は高橋家のことを考えてるのよ。神崎先生は今まで何度も当ててきたでしょう? お腹の子は女の子だって。それに、その子が生まれたら家の運気が落ちるとも言ってた」


 少し間が空いた。


「お父さんも早くに亡くなったし、私にはあなたしかいないの。実家の土地も家も、先祖代々のお墓も、いつか誰かが守っていかなきゃいけない。私は高橋の家をあなたの代で終わらせたくないのよ。最初の子が男の子なら、私だって安心できるのに」


 悠斗はまだ少し迷っているようだった。


「でも、あの霊能者の話、本当にそこまで信用できるのか?」


「どうして信用できないの? 私の友達だって何人も見てもらってるけど、神崎先生が外したことなんてほとんどないわ」


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて、悠斗の声から迷いが消えた。


「本人が嫌がってる以上、無理やり病院に連れていくわけにもいかない。神崎先生、そういうものを手に入れられる人を知ってるって言ってたよな。明日、行ってきてくれない?」


「それって……」


「奈緒が毎日飲んでる牛乳に混ぜればいい。自然に駄目になったと思わせれば、俺たちを疑わないだろ。一度に入れすぎるなよ。気づかれない程度にして」


「分かったわ。明日行ってくる」


 ドアの向こうで、私の手足は少しずつ冷たくなっていった。


 二人は、お腹の子を消そうとしている。


 理由はただ一つ。


 霊能者が「女の子だ」と言ったからだった。



3



 翌朝、悠斗はいつもどおり出勤した。家を出る前には私の額に軽く触れ、「無理するなよ。何か食べたかったら母さんに言って」と優しい声までかけていった。


 玄関のドアが閉まると、私はもう一度眠った。目を覚ますと昼近くで、久しぶりに空腹を感じたので、キッチンで簡単にうどんを作った。


 食べ終わったころ、義母が帰ってきた。


 私の姿を見た瞬間、動きがわずかに止まった。手にしていた紙袋を反射的に体の後ろへ隠したが、私は気づいていないふりをして食器を片づけた。


「起きてたの? お腹が空いたなら、私が帰るまで待ってればよかったのに。もう足りた? 何か作ろうか?」


「大丈夫です。少し食べたので、部屋で休みますね」


 義母がここに来てから、悠斗のいない昼間に冷蔵庫の肉や魚介類が私の食卓に並ぶことはほとんどなかった。


 口ではいつも「本当の娘だと思ってる」と言う。


 私も今までは、良い嫁でいようと笑って聞き流してきた。


 けれど今となっては、何もかもが白々しかった。


 夜、悠斗が帰宅すると、二人はキッチンで小声で話し始めた。


「例のもの、手に入った?」


「ええ。病院でもらった薬じゃないわ。神崎先生の知り合いから受け取ったの。妊婦が飲めば出血するって言われただけで、中身までは教えてくれなかったけど」


 悠斗はしばらく黙った。


「成分も分からないのかよ……」


「今さら怖くなったの? やろうって言ったのはあなたでしょう」


 最後には、悠斗のほうが折れた。


「最初は少しだけにしよう。もし何かあっても、奈緒の体調が悪かったことにすればいい」


 ベッドに横になったまま、私はむしろ冷静になっていた。


 もう義母一人の暴走ではない。


 悠斗も最初から最後まで、その中にいる。



4



 その夜、ベッドに入って間もなく、悠斗が寝室へ入ってきた。いつものような顔で、今日の牛乳はまだ飲んでいないのかと聞いてきた。


 私はもともと牛乳が好きではない。妊娠してからは匂いだけでも気分が悪くなることがあり、悠斗もそれを知っている。それなのに、今夜に限って妙に熱心だった。


「今日はいい。飲みたくない」


「少しだけでも飲んだほうがいいよ。最近ほとんど食べられてないだろ。温めてくるから」


 悠斗が部屋を出ると、私は数秒待ってからベッドを降りた。スリッパも履かず、足音を立てないようキッチンの近くまで行く。


 悠斗は寝室に背を向け、小さな包みの中身を温めた牛乳に入れ、スプーンで混ぜていた。


 昨夜聞いた話は、全部本当だった。


 今飛び出して問い詰めれば、こちらがどこまで知っているのか教えることになる。


 私は静かに寝室へ戻り、何事もなかったように横になった。


 しばらくして、悠斗がカップを持って戻ってきた。


「冷めないうちに飲みなよ」


「毎日だと、さすがに飽きる」


 悠斗の手に一瞬だけ力が入った。


「もう少し我慢してよ。赤ちゃんのためだと思ってさ」


 笑いそうになった。


 私は牛乳を一口だけ口に含み、飲み込んだふりをした。


 悠斗がシャワーを浴びに行った途端、口に残していた牛乳を吐き出した。カップに残っていた分は密封できる容器に少量移し、証拠として取っておくことにした。


 それは捨てず、自分のバッグの奥に隠した。



5



 翌朝、リビングから聞こえてきた話し声で目が覚めた。悠斗はほとんど眠れなかったらしく、義母も落ち着かない様子だった。


「昨日の、本当に効くのか? 俺はちゃんと奈緒が口をつけるところまで見たんだぞ」


「そんなはずないわ。効くって言われたもの。量が少なかったんじゃない? 今夜はもう少し入れてみたら?」


「中身も分からないのに増やして、本当に奈緒まで死んだらどうするんだよ。もう、この子はこのままでいいんじゃないか? 神崎先生だって間違えることはあるだろ」


「ありえないわ。神崎先生が女の子だと言ったなら女の子よ。私は高橋家を継ぐ男の子が欲しいの。今ここで残したら、あとで後悔するわ」


 私はベッドの上で、静かに拳を握った。


 たった一人の霊能者の言葉だけで、この親子は何度でも私の口に入るものへ正体不明の薬を混ぜようとしている。


 昨夜気づかなければ、今ごろ私は病院に運ばれていたかもしれない。


 まだ目立たないお腹にそっと手を当てた。


 これまで私は、家庭を壊したくないという理由だけで義母には愛想よく接し、悠斗にもほとんど怒ったことがなかった。


 二人はきっと、それを従順さだと勘違いしている。


 だったら、もういい。


 今日から我慢するのはやめる。



6



 悠斗が出勤したあと、私は義母の部屋をノックした。まだ眠かったのか、ドアを開けた義母の顔には一瞬だけ露骨な面倒くささが浮かんだ。


「お義母さん、急にお腹が空いちゃって。何か作ってもらってもいいですか? 大変なら、自分でやりますけど」


 義母は私を見たあと、結局断れずにキッチンへ向かった。冷蔵庫を開けながら小さな声で何か文句を言っていたが、私は聞こえないふりをした。


 料理ができあがるころ、私は笑顔でキッチンカウンターに近づいた。


「最近、本当にありがとうございます。お義母さんがいてくれなかったら、私どうしてたか分かりません。正直、最初は一緒に暮らしてうまくいくかなって心配してたんですけど、私ってすごく恵まれてますね」


 義母の表情がみるみる和らいだ。


「何言ってるの。家族なんだから当然でしょう。今は妊娠中なんだし、無理しなくていいのよ」


「じゃあ、もし午後に買い物へ行くなら、牛肉とエビとイチゴをお願いしてもいいですか? 急に食べたくなっちゃって。多かったら大丈夫です。悠斗に仕事帰りに買ってきてもらいますから」


 義母の笑顔がわずかに固まった。


「それくらい平気よ。食べたいものがあるなら言いなさい」


「お義母さんって、本当に優しいですね」


 義母が背中を向けて片づけを始める。


 私はその後ろ姿を眺めながら、久しぶりに気分が軽くなるのを感じた。


 まだ始まったばかりだ。



7



 その夜、悠斗が帰ってくると、私は彼の目の前で牛乳を冷蔵庫に戻し、代わりに白湯を飲んだ。


「今は牛乳の匂いだけで気持ち悪くなるから、しばらくやめる」


 悠斗はまだ何も入れる前だったらしく、何も言えなかった。


 夜中の十二時近くになってから、私は眠っていた悠斗の肩を揺すった。


「悠斗、お腹空いた。うどん食べたい」


 半分寝たままスマートフォンを確認し、露骨に嫌そうな顔をした。


「もう十二時だぞ。明日じゃ駄目?」


 私は手を離して背中を向けた。


「もういい。寝て。結婚してまだそんなに経ってないのに、妊娠中の妻が夜中にちょっと食べたいって言っただけで、その反応なんだ」


 悠斗は閉じかけた目をもう一度開いた。


 子どものことを思い出したのか、それとも新しく薬を混ぜるチャンスだと思ったのか、最後には布団をめくって起き上がった。


「分かったよ。作ってくるから、そんな言い方するなって」


 十数分後、悠斗はうどんを持って戻ってきた。


 私は顔を近づけて匂いを嗅ぎ、すぐに口元を押さえた。


「駄目。急に気持ち悪くなった。全然食べられそうにない。もったいないから悠斗が食べて」


 うどんを持つ手がぴくりと揺れた。


「俺、夕飯かなり食ったから腹減ってない」


「二口くらいならいいでしょ。もしかして、私が口をつけたから嫌なの?」


 悠斗の顔がみるみる引きつった。


 それでも断りきれず、仕方なく麺を少し口に入れる。一口目を飲み込んだあと、二口目にはほとんど手をつけず、すぐに丼を持ってキッチンへ行ってしまった。


 少しすると、洗面所から水の音が聞こえた。


 私は寝返りを打ち、枕に顔を埋めた。


 自分で飲むのは、そんなに怖いんだ。



8



 それから数日間、私は悠斗に薬を混ぜる隙を与えなかった。


 昼間は義母に買い物へ付き合ってもらい、料理を頼み、家のこともお願いした。苛立ちが顔に出そうになるたび、私はわざと笑顔で持ち上げた。


「こんなに面倒見のいいお義母さん、なかなかいませんよ。今度実家に帰ったら、母にも自慢しなくちゃ」


 義母は疲れ切った顔をしていても、そう言われると無理に笑った。


「これくらい当然でしょう。高橋家の子を妊娠してるんだから、私が面倒を見なくてどうするの」


 夜になると、私は一日おきくらいに「お腹が空いた」と悠斗を起こした。


 お茶漬けが食べたい日もあれば、うどんの日もあった。近所のコンビニまでおにぎりを買いに行かせたこともある。


 そして食べ物が目の前に並ぶころになると、つわりを理由に「やっぱり無理」と言った。


 数日もすると、悠斗の目の下にははっきりと隈ができ、義母の我慢も限界に近づいていた。


 二人とも腹を立てているのに、私に本気で怒鳴ることはできない。


 まだ機会を待っているからだ。


 私も同じだった。



9



 先に耐えられなくなったのは悠斗だった。


 仕事から帰ると義母をキッチンへ連れていき、抑えきれない苛立ちをぶつけた。


「母さん、この数日どうなってるんだよ。奈緒が夜中に腹減ったって起こすから、俺何回料理したと思ってる?」


「なんで私に当たるのよ。昼間はあっさりしたものがいいって奈緒さんが言うから、そうしてるだけでしょう。それより、最近あの子ちょっと変じゃない?」


 二人はしばらく黙った。


 義母が急に声を落とした。


「悠斗……もしかして、奈緒さん、気づいてるんじゃない?」


「まさか。最初に子どもを諦めないかって言っただけで、いきなり俺を叩いたんだぞ。本当に薬のことまで知ってたら、こんなに黙っていられるわけない」


「じゃあ、どうして急にこんなことばかりするの?」


 悠斗にも答えはなかった。


 やがてキッチンを出る音がした。


「直接聞く」


 寝室で一部始終を聞いていた私は、スマートフォンを手に取った。


 両親には「悠斗との間でかなり深刻なことが起きている。すぐ来てほしい」とだけ送った。


 そして、もう一通。


「着いてもすぐに入ってこないで。中から激しい物音がしたら、すぐ110番して」


 送信したあと、これまで保存してきた録音と動画、それに牛乳のサンプルをもう一度バックアップした。


 向こうから聞きに来てくれるなら都合がいい。


 そろそろ終わらせよう。



10



 悠斗が寝室に入ってきたとき、私はベッドの端に座っていた。


 彼はしばらく私を見つめていた。まだ以前と同じ、妻を心配する優しい夫を演じるつもりらしい。


「最近どうしたんだよ。何か怒ってる?」


 私はスマートフォンを膝の上に置いた。


「離婚しよう」


 悠斗が固まった。


 ドアの近くに立っていた義母の表情も変わる。


 私は二人に考える時間を与えず、録画していた動画を開いて画面を向けた。


「神崎先生が、私のお腹の子は女の子だって言ったんでしょ? だから最初は中絶させようとして、私が断ったら今度は正体も分からないものを牛乳に混ぜた。一度で駄目だったから、次は量を増やそうとまでしてたよね。それでも、最近の私がおかしい理由が分からない?」


 悠斗の顔から血の気が引いていった。


「いつから知ってた?」


「最初から」


「じゃあ、この数日ずっと俺たちを馬鹿にしてたのか?」


 私は笑った。


「人の飲み物に薬を入れるのはいいのに、何度か料理をさせられるのは許せないんだ?」


 悠斗が一歩近づき、私のスマートフォンへ手を伸ばした。


 私はすぐに引いた。


「動画も録音も全部バックアップ済み。残った牛乳も取ってある。中に何が入っているのかは、警察に調べてもらえば分かる」


 義母の顔色が一気に変わった。


「家族の間のことで、わざわざ警察沙汰にするの? 子どもなんてまた授かるかもしれないでしょう。でも悠斗の仕事はどうなるのよ!」


「私には関係ありません」


 悠斗の表情から、最後に残っていた優しさが消えた。


「会社に知られたら、俺の人生終わるんだぞ!」


 私は黙って彼を見た。


 ここまで来ても、心配しているのは自分のことだけだった。


 悠斗はゆっくりドアの前へ移動し、出口を塞いだ。


「そのスマホ持ったまま、今日はここから出さないから」



11



 私はスマートフォンを握ったまま少しずつ後ろへ下がった。


 悠斗も距離を詰めてくる。


 義母ももう、いつもの優しい姑を装う気はないようだった。


「警察には行かない。データも全部消す。それを約束するなら、何もなかったことにしてやる。子どもだって、もう産みたければ産めばいい。今までどおり夫婦で暮らせばいいだろ」


 私は数秒、悠斗を見つめた。


「でも私、もうこの子にあなたみたいな父親はいらない」


 悠斗の顔が歪んだ。


 その隙に私は寝室へ駆け込み、ドアを閉めて鍵をかけた。


 すぐに激しく叩く音が響く。


 外では義母が何かを探し始め、やがて悠斗が予備の鍵はどこだと聞いているのが聞こえた。


 私はクローゼットの隅に立てかけてあった金属製のバットを握った。


 悠斗がもう一度ドアを叩く。


 さっきまでより、逆に声は静かだった。


「奈緒。これが最後だ。動画を消せば、まだやり直せる」


「私の飲み物に薬を入れたときは、これからも一緒に暮らすつもりだったの? もし今日、私に何かあったら、バックアップは両親と弁護士に渡るようにしてある。よく考えたほうがいいよ」


 一瞬、外が静まり返った。


 直後、鍵穴に鍵が差し込まれる音がした。


「だったら、渡せなくすればいい」


 悠斗の低い声が、ドア越しに聞こえた。



12



 鍵が回った瞬間、私はドアの脇へ移動した。


 悠斗が扉を押し開け、勢いよく中へ飛び込んでくる。


 私がバットを構えたのを見ると、一瞬ひるんだものの、それでも止まらなかった。


「そんなもの置け!」


 悠斗は腕を掴み、そのまま私を壁へ押しつけた。


 次の瞬間、指が首に食い込んだ。


「全部お前のせいなんだよ! お前さえ黙ってれば、こんなことにはならなかった!」


 息が詰まる。


 私は必死に体をひねり、片手でバットを振った。


 金属音とともに悠斗の前腕に当たり、彼は呻きながら手を離した。


 そこへ義母まで部屋に入ってきて、入口にあったハンガーを手に私へ向かってきた。


 私は身をかわし、義母を押し返した。


 バランスを崩した義母は床に尻もちをつく。


 悠斗がもう一度向かってきたので、今度は足元を狙ってバットを振った。悠斗はその場に崩れ落ちた。


 大学時代、一人暮らしを心配した両親に勧められ、私はしばらく空手を習っていた。


 卒業してからほとんど練習していなかったが、最低限の身の守り方くらいは覚えている。


 何より二人は、私が本気で抵抗するとは思っていなかった。


 悠斗がすぐには立てないのを確認してスマートフォンを遠ざけ、旅行用の丈夫なベルトで両手を固定した。


 義母が立ち上がろうとしたので、私はバットを構えたまま見据えた。


「動かないで。もう警察が来るから」


 義母の動きが止まった。


 しばらくすると玄関のチャイムが激しく鳴り、父の声が聞こえた。


 大きな物音を聞いた同じ階の住人も廊下へ出てきている。


 その直後、110番通報を受けた警察官も到着した。


 玄関を開けると、母は真っ先に私のところへ駆け寄り、首や腕に怪我がないかを確認した。


 父は部屋の中にいる悠斗と義母を見て顔色を変えたが、警察官に制止されて足を止めた。


 私はスマートフォンと保管していた証拠を差し出した。


「夫と義母が、私の飲み物に正体不明のものを混ぜていました。それが発覚したあと、外に出さないと言われて、予備の鍵で部屋に入られました。夫には首を絞められました」


「嘘だ!」


 悠斗が床から声を上げる。


 私は言い返さず、テーブルに置いたスマートフォンと牛乳のサンプルを指さした。


「録音も動画もあります。残った牛乳も保管してあります」


 リビングはようやく静かになった。



13



 警察は私たちを別々にして事情を聞いた。


 悠斗は最初、最後まで否定するつもりだったらしい。


 けれど警察が保管していた牛乳や包装を証拠として確認し、スマートフォンについても捜査すると告げたころには、明らかに動揺していた。


「ただの夫婦喧嘩です。こいつ、妊娠してから精神的に不安定になってて、ずっと俺たちに何かされるって思い込んでるんです」


 私は離れた場所から答えた。


「私の思い込みかどうかは、警察に調べてもらえば分かります」


 義母もすぐに話を変えた。


 私を傷つけるつもりはなく、体に良いと聞いたものを飲ませようとしただけだと言い始めた。


 警察は三人をその場で言い争わせることはせず、それぞれから事情を聞き、証拠を確認していった。


 その夜、私は両親と一緒に実家へ戻った。


 帰る途中、母はほとんど口を開かなかった。


 家に着いてからもしばらく黙っていたが、やがて私のお腹へ視線を落とした。


「奈緒。もし悠斗さんが本当に刑事事件になったら……お腹の子はどうするの?」


「まだ決めてない」


 母は以前のように、自分の考えを押しつけようとはしなかった。


「あなたの体なんだから、よく考えて決めればいい。昔はお父さんも私も、結婚した以上は多少のことがあっても夫婦で乗り越えなきゃって思ってた。でも、『家族なんだから』で我慢していいことばかりじゃないのね」


 父は向かいのソファに座ったまま、ずっと険しい顔をしていた。


「悠斗くんは穏やかな人だって、お前も言ってたし、俺たちもそう思ってた。まさか、こんなことをするとはな」


「本当に、演技が上手だったんだと思う」


 父は私を見て、小さく鼻を鳴らした。


「それにしても、お前もよくここまで我慢したな。昔のお前なら、気づいたその日に大騒ぎしてただろ」


「妊娠中だったんだから、少しは慎重になるよ」


 母が私の腕を軽く叩いた。


「こんなときまで冗談言って」


 私は母の肩にもたれた。


「しばらく家に戻ってもいい? 邪魔だって言わないでね」


 母は私の髪を撫でた。


「帰ってきなさい」



14



 翌日、私は産婦人科を受診した。


 警察が介入していること、夫から暴力を受けたこと、現在は別居しており婚姻関係が事実上破綻していることも含め、これまでの経緯を医師にすべて説明した。


 診察の結果、妊娠週数は十五週に入っていた。


 医師からは、中期の人工妊娠中絶になること、その場合に必要となる手続きや身体への負担について詳しい説明を受けた。


 配偶者の同意を得ることが困難な事情についても確認され、病院側と相談しながら必要な手続きを進めることになった。


 診察の途中、医師がもう一度確認した。


「本当に中絶を希望されますか?」


「はい」


 この答えを出すまで、一晩中考えた。


 お腹の子には何の罪もない。


 それでも、これまで起きたことや、悠斗と義母が「高橋家の跡取り」という考えだけでここまでしたことを思うと、今の私にはこの妊娠を続けるという選択ができなかった。


 診察が終わる直前、私はふと、あの馬鹿げた霊能者の言葉を思い出した。


「先生、一つだけ聞いてもいいですか。今の週数なら、性別は分かりますか?」


 医師は超音波画像をもう一度確認した。


「まだ断定はできません。ただ、今見えている範囲では男の子の可能性が高いですね」


 一瞬、頭の中が真っ白になった。


 男の子。


 義母と悠斗が必死になって消そうとした子は、二人が何より望んでいた「跡取り」だった可能性が高い。


 もし二人が神崎の言葉を信じなければ。


 もし悠斗が私の牛乳に薬を混ぜなければ。


 こんなことにはならなかった。


 それでも、私は自分で決めた選択を変えなかった。


 必要な手続きを経て、中絶を受けた。


 実家で体を休めている間も、捜査は続いていた。


 警察は私が保管していた牛乳を鑑定し、二人のスマートフォンの履歴やメッセージ、正体不明の薬を入手した経緯についても捜査した。


 悠斗は不同意堕胎未遂と殺人未遂などで起訴された。


 義母も、不同意堕胎未遂や暴行などで起訴された。


 数か月後、判決が出た。


 悠斗には拘禁刑八年の実刑判決が言い渡された。


 義母にも実刑判決が下された。その後、精神状態が大きく悪化し、治療を受けられる医療体制の整った刑事施設へ移されたと聞いた。


 私はまだ離婚届を出していなかった。


 手続きを終わらせる前に、一度だけ悠斗に会うことにした。



15



 判決が確定したあと、私は悠斗との面会を申し込んだ。


 まだ法律上は妻だったこともあり、面会は認められた。


 面会室で仕切り越しに悠斗を見た瞬間、少し驚いた。


 以前よりずっと痩せていた。


 髪も短くなり、かつて丁寧に作り上げていた「優しい夫」の面影はもうほとんどなかった。


 私を見るなり、悠斗の顔が険しくなった。


「何しに来たんだよ。俺を笑いに来たのか?」


「まあ、そんなところ」


「まだ足りないのか? お前が警察に通報しなければ、俺はこんなところにいなかったんだぞ」


 私は言い返さなかった。


「子どものこと、聞かないんだね」


 悠斗の目が一瞬動いた。


 けれど、すぐに冷たい表情へ戻った。


「あの子のせいで俺はこうなったんだ。産みたきゃ勝手に産めばいい。もう俺には関係ない」


「産まないよ」


「何?」


「中絶したから」


 悠斗はしばらく黙ったあと、鼻で笑った。


「だったら、なおさら何しに来たんだよ」


「一つだけ教えてあげようと思って」


 私は面会前に施設側の確認を受けていた診療記録の写しに視線を落とした。


「手術前の最後の診察で、先生に言われたの。断定はできないけど、男の子の可能性が高いって」


 悠斗の表情が止まった。


 私は彼から目を逸らさなかった。


「あなたとお義母さんが、あの霊能者の言葉を信じて必死に消そうとした子。たぶん、あなたたちがずっと欲しがってた男の子だったよ」


「嘘だ」


「そう思いたければ、そう思えばいい」


「俺に復讐するために作った話だろ」


「うん。今日はあなたにこれを伝えるために来た」


 否定はしなかった。


 悠斗が急に立ち上がり、職員から座るよう注意された。


「神崎先生が間違えるはずない……。あの人が女だって言ったんだ……」


 私はしばらく、その姿を見ていた。


 ここまで来ても、まだあの霊能者を信じている。


 急に、何もかもが馬鹿らしくなった。


「じゃあ、一生そう思ってれば?」


 私は立ち上がった。


 悠斗が私の名前を呼んだが、もう振り返らなかった。


 面会のあと、私は弁護士を通して離婚の手続きを進めた。


 すべてが終わると、高橋姓から婚姻前の佐々木姓へ戻した。


 高橋奈緒という名前は、そこで私の人生から消えた。


 私はもう一度、佐々木奈緒になった。


 以前使っていた連絡先も変え、あのマンションへ戻ることもなかった。両親はもう結婚を急かさず、これからどう生きるかについて口を出すこともなくなった。


 休みの日には友達と食事へ行き、旅行もした。


 一日中、実家で何もせず過ごすこともある。


 一人で自分の時間を決められる生活は、思っていたよりずっと気楽だった。


 その後、弁護士から悠斗の話を少しだけ聞いた。


 服役してから悠斗は、「本当なら自分には息子がいたはずだ」と繰り返すようになり、精神的にも不安定になっていったらしい。


 やがて他の受刑者とのトラブルで脚に大きな怪我を負い、精神状態もさらに悪化した。その後は治療のため、医療体制の整った刑事施設へ移されたという。


 義母の状態も、良くなることはなかった。


 二人があれほど必死になって守ろうとした「高橋家の未来」。


 結局、何一つ残らなかった。


 そして私は、二度と振り返らなかった。



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