ひとりぼっち③
森の周辺は静かだった。
夜が明けて、木漏れ日が差し込む中、赤ん坊は目が覚めて、気分が良いのか泣き声ひとつ上げなかった。
この近くには野盗がよく出没する。赤ん坊を連れてこの森を抜けるには少々危険が残る。せめてこの雪から逃れられる場所はないだろうか。近くに村があれば、なんとか泊めさせてもらいたいところだが、近くに人里がある気配もない。
「良い子だな」
バアルは優しく赤ん坊の頭を撫でる。早朝からずっと歩き続けていると言うのに、シアーシャと赤ん坊は泣き言ひとつ言わなかった。
「辛くはないですか? ここは斜面が多いので、足を滑らせでは危険です。よかったら持つのを変わりましょうか」
「いえ……このくらいへっちゃらです。怪我をしているバアルさんには、わがままを言えませんし」
「無理だけはしないでくださいね」
あまり森を歩くのに慣れていないのか、足元が不安定だ。シアーシャを見ていると、すぐに転んでしまいそうで心配だ。
「わ、わわッ」
そう思った途端に、転けそうになったシアーシャの手を、咄嗟にバアルが掴む。なんとか転ばずに済んだが、身体のバランスが取れないまま、シアーシャの身体は勢いよく引っ張られる。
「頑張るのは結構ですけど、無理をして祟られるのは自分自身ですよ」
「す、すみません……」
「その子を貸してください」
「……はい」
バアルはシアーシャから赤ん坊を取り上げ、先頭を歩く。心配をさせないように無理をしていたのが裏目にでた。自分には、赤ん坊を怪我させないように歩くこともできないのか。自分には何ができるんだろう……。そう考えるとバアルは歳の割に、器用だ。森の知識だけにとどまらず、感覚が鋭く他人への配慮も欠かさない。シアーシャには、バアルが今まで出会ってきた人間とは少し違う雰囲気を纏う人に見えた。不思議な人だ。
「あの……バアルさん。ひとつ、お聞きしてもよろしいですか?」
「バアルさんは、どうして私なんかを助けてくれたんですか? あの時の私は、誰の目から見ても死にかけていて、助かるはずなんてなかったのに……」
「別に、特別な意味はないですよ」
「あの時は俺も必死で、最初はあなたをこの子の母親だと思っていました。まだ呼吸のあったあなたを助けなければ、赤ん坊がひとりぼっちになってしまう。あのまま見捨ててしまえば、絶対に後悔すると思った……だから助けたんですよ」
「そう……だったんですか」
「優しいんですね……バアルさんは」
シアーシャは、バアルに聞こえない声音で呟いた。
「バアルさんは……家族がいらっしゃるんですか?」
何も考えずに出た一言だった。無神経なことを口走ったことにすぐに気がついたが、吐いた言葉は飲み込むことはできない。
「いましたよ。でも、少し前にいなくなっちゃったんです。故郷をシルド王国の師団に侵略されて、家族もそのまま……」
「あ、す、すみません……無神経なことを聞いてしまって……」
「いえ、気にしていませんよ」
そう言う彼の表情は遠くを見つめていた。まるで、過去を思い出すような、遠い眼差しだった。
シルド王国に……。
その言葉を聞くだけで虫唾が走る。バアルもシルド王国から大切なものを奪われたのだ。シアーシャは、ひとり静かに怒る。
「その怪我……もしかして、その時に襲われたんですか?」
「はい。逃げるのに必死で、森の中に逃げ込んだら迷子になってしまって……食糧もないまま彷徨っていた所に、あなたたちふたりを見つけたんですよ」
シアーシャの失言を気にしていないバアルだが、彼の声はどこか寂しげで、低かった。
「そう言うシアーシャさんは、どうしてこんな森の中にいたんですか?」
「私は……」
「バアルさんは、生贄の民と言う一族の名前を聞いたことがありますか?」
「名前だけなら、聞いたことがありますね」
「私たち生贄の民は、古くからシルド王国の統治下にありました。何百年も昔から現在に至るまでずっと、私たちは、王国の太公に嫁ぐならわしがあるんです。好きな人と結ばれることもなく、知らない男性と無理矢理結婚させられることから……人々は私たちを生贄の民と呼びます」
「今年も村の若い女の子の中から、生贄が決まり、王妃となる少女を王国へ護送する途中、村の若い男の子が生贄の女の子を助けるために馬車を襲撃したんです。それに、巻き込まれて、私は……」
シアーシャが口を開こうとした。だが、それよりも前にバアルが突然と足を止めた。
「どうかされたんですか?」
「――しっ」
バアルは耳を澄ます。
山間の風の鳴き声が木魂して、音を運ぶ。馬のいななき。そして悲鳴。八人……いや、九人の人間の音がする。鉄と鉄がぶつかり合う軽い音が響いてくる。
進行方向以外に道はない。おそらく誰かが野盗に襲われている。戦闘は避けられない。
「シアーシャさん。この子を頼みます」
「え、え、バアルさん! どこに行くんですか!」
バアルは長剣を構えて森をかける。音を辿りながら、遠くへ離れて行くのを、シアーシャはひとり取り残されながら、彼の姿を眺めることだけしかできなかった。




