プロローグ①
白銀の世界に一人の青年がいた。
足元に広がる膝ほどの高さがある雪の上を青年は軽い足取りで歩く。格好は動きにくそうな厚着で、寒さから身を守るためか重ね着した衣服の上に毛皮を羽織り、片手には身の丈ほどの大弓を構えている。
長年この地域で暮らしてきた青年からしたらこの程度の雪は軽いものだ。普段のように足音を立てずに歩くことはできないが、この寒さにも慣れている。呼吸は獣に気取られないほど小さく、青年の姿は熟練の狩人そのものだった。
しかし、青年の姿はどこか異様だった。
普通ならば冬になると獣たちは姿を隠し、春になるまで冬眠をしているはずだ。それは青年も知っている。まだ若いとは言え、知識のない素人ではない。だが、考えても見ればこんな真冬に狩りをする狩人なんているはずがない。この季節に狙える獣といえば棲家を追い出された逸れ者か、十分な餌を手に入れていない若い獣のどちらかだろう。
運良く獣を見つけたとしても逃げられては意味がない。気取られないよう、できるだけ静かに青年は歩み寄る。
その時、ふと自分の足元に視線を下ろした。
進行方向に、小さな足跡が雪の表面に浮かんでいる。獲物だ。
青年は無造作に雪を鷲掴み、自分の口に詰め込んだ。これは、呼吸で気配を気取られないようにする為の気休めだ。
身体を小さく折り曲げて、雪に身を隠す。できるだけ雪の上を浅く踏み、獲物との距離を縮める。
目線の先には、一匹の山鹿がいた。まだ若いが、腹の辺りがやや膨れている。おそらく子供を宿した雌の山鹿だろう。運が良い。山鹿はおそらく子供を育てながら冬眠するだけの餌を集められなかったのだろう。
青年は、矢を取り出し、かじかんだ指で弦を引きながら山鹿に狙いを定める。その時、突然、風が強く吹いた。風と雪はまったくの別ものであり、雪は優しく柔らかくゆっくりと触れてくるのに、風だけはつめたく、寒く、刺して、斬りつけてくる。弦を引っ張る指は凍りついたように乾き、指の先から冷たい血が滴り落ちる。そのことに青年は気づいていなかった。
山鹿の耳が風に包まれているうちに、早く仕留めなければ。距離を近づけるたび、逃れることのできない死の予感が雪原に立ちこむ。ぴくぴくと耳を揺らす山鹿はまるで、その感覚の発生源を探すように神経を尖らせていた。確実にこちらの気配を感じ取っているが、その気配がどこから来るものなのか、山鹿は知るよしもない。
青年はもうすでに山鹿の背後に近づいている。狩人には自分の射程と言うものがある。どんな腕利きの狩人でも60メートル程が限界である。青年はそれを超える80メートルの距離が射程圏内である。
この距離で外すことはまず無い。それでも油断せず、青年は気配を断つ。山鹿が一瞬、動きを止めた。勢いよく飛んだ矢が山鹿の首筋を貫いた。絶え間ない悲痛な叫び声が静寂を突き破った。
山鹿はそのまま横たわり、浅い呼吸で身体を揺らしている。青年は仕留めた獲物に近づき、ナイフを取り出す。剣先が首に入る。先端が喉のあいだへ喰いこんだ。力をこめた。数センチ、のめり込む。筋肉がショックで縮み、刃先が前へ進まない。強引に突き続ける。ねじり込むように体重をかけて数ミリずつ進めた。不意に山鹿の抵抗がゆるむ。剣先が相手の体内に、奥深くめり込んでいった。
運が良かったのだろう。獲物を見つけることができたのも、仕留められたのも、全ては運なのだろう。狩りは自分の実力だけが全てではない。小さな積み重ねこそが狩りの真骨頂。だからと言って獲物にありつけたのは神さまと言う存在のおかげと言う気はない。青年は神を信じていない。多少の敬意はあるが信仰するほど熱心に信仰したことは一度もない。
仕留めた獲物を背負いながら青年は再び、白銀の世界を歩く。山鹿から流れる血を大地に染み込ませながら、青年は雪霧に包まれ、姿を消した。




