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第九話 炊事場にて

 ラニア・フォン・フランクリンに料理の知識はないが、高槻果菜は職業で食品を扱い、『ギリギリ脳汁レシピチャンネル』を運営してきた人間。主人公チートも相まって、調理場に行けば何とかなるだろうという甘い考えがどこかにあった。


 しかしだ。


 ピッと押したら火が点く――そんな便利な文明の利器があるはずもない。調理施設を目の当たりにした瞬間、思わず「マジか」と本音が漏れた。


 アーロン卿が少々侮蔑を含んだまなざしで私を見る。


 日本語とライニール語が同じであることは、何かしら大いなる力でも働いているのかもしれないが、こういうとき果菜の言葉遣いは「庶民の汚い言葉」になってしまうから都合が悪い。


 私はアーロン卿にお姫様抱っこされた状態でコホンと咳払いし、「下ろしてくださいません?」と、むしろお淑やかさを捨てて横柄に口にした。


 アーロン卿は命じられるままに私を地面にそっと立たせ、さも当たり前のように手を差し出す。この顔にこの気遣い。モテるんだろうな。


「フランクリン公爵令嬢、私の顔に何か?」


「アーロン卿ならロマンチックな恋をする機会はいくらでもありそうですわ。ですから、先ほどの私の言葉は気になさらないで」


「あまりからかわないでください」


 アーロン卿は、今度は笑顔でかわした。それより問題は炊事場だ。


 そこは、想像していたよりもふた回り以上大きな、年季の入った趣ある建物だった。炊事場と言うよりサブキッチン。むしろメインキッチンでもいいくらいの規模。


 煉瓦で造りつけられたオーブンは、腰の高さに出し入れ口がふたつ。扉はなく、石窯焼きのピザ屋でこんな感じの窯を見たことがある。内部はおそらくドーム状になっている。しかし、そこに火は入っていなかった。


 緋色をチラつかせ熱気をムンムン発しているのは、窯の奥にある超開放的で大きな暖炉(?)。熱源のそばに調理中の鍋がドン、ドン、とふたつ置かれている。


 果菜のイメージでは「暖炉」は薪のイメージだけど、燃料は石炭らしかった。暖炉っぽいオーブンには横壁に出っ張りがあり、金属棒がそばに立てかけられている。


 これは!

 もしかして肉をぶっ刺してぐるぐる回しながら焼くやつでは?!


 私の胸にメラメラと好奇心が燃え上がった。だが、レードル(おたま)を握りしめ、怯えた顔で縮こまっているメイドを放っておくわけにもいかない。奥に見えるガラス窓の向こうからも、数人の使用人がチラチラこちらをうかがっていた。


 この建物に入ったことはなかったが、造りから推測すると隣室はスパイス加工やハーブオイルの抽出をする蒸留室のようだ。窓越しに見える顔はみんな幼く、そしてレードルを持った少女やハンスのように痩せている。


 少女の名前はエマと言った。

 少女といってもアリシアと同年代くらいだ。


「ねえ、エマ。向こうには他にも使用人がいるみたいだけど、あなた一人で調理してるの?」


 私が問いかけると、エマが「はい」と声を震わせた。


「……もう火の番だけでいいので」


 彼女はチラとハルフォードさんの顔をうかがう。罰せられることでもしたのだろうか、と問いたげな表情だった。名乗っていないから私がラニアだと気づいているかどうかはわからないが、騎士に抱かれて現れた女がただの使用人のはずはない。


「エマ。罰したりしないから気にせず仕事を続けて。ああ、そうだ。きっとスープを作っているのよね? 使えそうならこれも入れてくれる?」


 ハルフォードさんがハンカチを広げ、拾い集めたムカゴをメイドに見せた。すると、彼女はパッと顔をあげた。


「あ、ありがとうございます。いいんですか?」


「エマはこれが何かわかるのね」


「オニユリのムカゴですよね。東棟の陰にある。ハンスさんが、あれは食べられるんだって教えてくれて」


「食べられると知ってるのに採らなかったの? その様子を見る限り食事は十分ではないのでしょう」


「屋敷内のものは勝手にとってはいけないと言われているので」


 執事を見ると、彼は申し訳なさそうにうなだれた。ハルフォードさんも彼らを守りたいけど力及ばずということだ。


 エマは裏手の水路にムカゴを洗いに行き、私はぐるりと炊事場を見回した。やはり、規模も設備も上流貴族のメインキッチン。しかし、ライニール王国が19世紀イギリスに該当するならば、ここの設備はひと昔前のものだ。


「蒸留室が併設されているようですね。それでこの設備も取り壊さず残したのでしょう」


 アーロン卿も物珍しそうに炊事場を観察していた。


王都(サヴァ・ライナ)の屋敷にはほぼガスオーブンが導入されていますが、アーロン侯爵領の領地邸宅(カントリーハウス)にはこれと同じものがあります。

 ガス設備ができて使用人用にしたようですが、もったいないですね」


 彼は暗く沈黙したオーブンを見やる。


「ねえ、ハルフォードさん。この窯は使わないの?」


「使える石炭の量が限られていますし、使えば掃除の手間も増えます。ガスが導入され、一番助かったのは煤掃除にかかる人手が減ったことです。あれは子どもがやるには過酷な仕事ですから」


 そういえば、屋根に突き出した煙突からは黒々とした煙が立ち昇っていた。果菜の記憶があるせいでその眺めをどこかノスタルジックに感じたが、果菜の知識をもって考えればハルフォードさんの言うことはもっともだ。「それに」と執事は続ける。


「使用人の賄ですので、窯に火を入れるほどの料理はしないのです。朝は紅茶に昨夜の食べ残し、昼は麦粥、夜は本邸から回されてくる食べ残しとジャガイモ」


 果菜とラニア、ふたり分のショックが胸を突いた。


「じゃあ、あの鍋は粥なの? スープじゃなくて」


「麦粥ですが、野菜もいくらか入っています。工場労働者の食事に比べれば格段に良いですが、いかんせん量が足りず」


「パンは?」


「運よく残り物があればですね」


 そのときエマが駆け戻ってきた。ムカゴと水の入った小鍋を火のそばに置き、作業台のガラス瓶から塩をひとつまみ入れる。


 ……塩?


 塩!

 塩!

 塩!


 塩があったどー!!


 アドレナリンが放出されるのを自覚しながら、私は努めて冷静にエマの話しかけた。


「アク抜きしたほうがいいことも知ってたのね」


「はい。ハンスさんに聞きました。そうしないと苦いのが出ちゃうって」


 エマは作業台に置かれていたレードルをつかみ、大鍋の蓋を開けてかき混ぜる。中身は粥というにはずいぶん薄そうな液体だった。


「屋敷の規模が大きいからこその格差ですね」


 アーロン卿は哀れみのこもった目でエマを見、隣室の窓を見た。つられて奥に目をやると、窓の向こうに宙を過ぎる黒いもの。


「えっ、出目ちゃ……」


 うっかり口にしかけたというか、ほぼ口にしていた。


「フランクリン令嬢、何か?」


「なんでもありませんわ。ただの見間違いです」


 見間違いどころか、黒い出目金は私にまったく気づく様子もなく、フヨフヨ隣室を泳いでいる。懸命に尾びれを振って視界から消えた。

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