第三話 喋る金魚と悪魔の妹
いやいやいや、金魚が宙を泳ぐなんて、もう一眠りしたほうが良さそう。
しかし、眠りを妨げる声があった。
「フランクリン公爵令嬢! お気づきになりましたか?」
フランクリン公爵令嬢といえば、『虐げられ令嬢は救国の魔女』に登場する姉妹のはず。
やはり夢だと思いつつも聞き覚えのある声に目を開けると、そこには金髪に緑色の目をしたニールがいた。
そして、すべての悪夢――いや、現実が頭の中に舞い戻ってくる。
私が恐怖で身をすくめると、彼は「大丈夫ですか?」と心配そうに顔をのぞき込んできた。
「レイモンド王太子殿下にお伝えしようと思ったのですが、フランクリン公爵夫人から『令嬢はよくこうして倒れられるけれど、しばらくすれば起きるから殿下に心配をおかけしないよう伝えなくていい』と言われて。
何か必要なものがあればおっしゃってください。
王宮医を呼ぶこともできますが」
「……けっこうです。少し休んでいれば治りますから」
私が上半身を起こすと、ニールはようやく安心したようだった。
しかし、実際のところまだ頭痛は治まっていないし、頭の中に流れ込んできた大量の記憶に発狂しそうだ。
これが令和の日本ならキッチンに立ってギリギリ脳汁レシピを開発し始めるところだが、そういうわけにもいかない。
それに、ニールには見えていないらしい、目の前を悠々と泳ぐ出目金のことも頭痛の種のひとつだった。
「すいませんが、しばらく一人にしてくれません?」
「承知しました。何かありましたらこちらのベルを鳴らしてください」
ニールは礼儀正しく礼をして部屋から出ていった。
「出目ちゃん」
「なんだ、果菜。ここはどこだ?」
「ライニール王国の王宮の、広間の近くにある休憩室」
「どこだそれは?」
「その前に、なんで出目ちゃんは喋れるの?」
私の質問に出目ちゃんは体をかしげる。
「何を言ってる。いつも話してたじゃないか。まあ、今日は妙に会話が噛み合ってるのが変な感じだが」
たしかに、出目ちゃんに話しかけてはいたけど、まさか向こうからも話しかけられていたとは。
「わかったぞ、果菜。ここは異世界だろう?
果菜がいつも『異世界転生したーい』『ヒラヒラのドレス着て、召使いに全部やってもらうんだ』って言っていたじゃないか。その願いを叶えたのか?
異世界に行くには相当なお金が必要なんだろうと想像していたが、宝くじでも当たったのか?」
「……たぶん違うよ、出目ちゃん。私も出目ちゃんも死んじゃって、異世界に飛ばされたんだ。そもそも、出目ちゃんはなんで私が果菜ってわかるの?」
壁にかかった鏡に映ってるのは、社畜女子の疲れ果てた風貌とは似ても似つかぬ金髪の公爵令嬢。しかし、いかにも不健康そうな青白い肌をしている。
「見た目は違うけど、果菜は果菜だろう。それ以上どう説明していいかわからない」
私と話すより室内探検に興味が湧いたのか、出目金は尾びれを振って離れていく。
頭痛は徐々におさまっていたが、思考力が戻って来ると絶望的な気分になった。
今の私にはラニアの記憶と果菜の記憶がある。
そして、回帰前の断罪の記憶もちゃんと残っている。
ということは、私は今断罪されて回帰し、アリシアのデビュタントの日に戻ってきたラニアということになる。
しかし、目の前に表れたのは契約精霊の獅子デミュチューンではなく、微妙に名前の似たデメチャーン。
さらに、五〇〇年前の大魔道士の魔法知識や記憶を思い出そうとしても、出てくるのは魔法陣や詠唱文ではなく、「前世は偉大な大魔道士だった」という小説の一文。
その代わりにあるのが、令和の社畜で商品開発部にいたアラサー女子の、『ギリギリ脳汁レシピチャンネル』(チャンネル登録者数576人)を運営する高槻果菜の記憶。
レイモンドの洗脳を解くためには、魔力運用の鍛錬をし、失われた魔導書の記憶を元に解除術を行わなければいけないのに。
「ゲテモノレシピでどうやって洗脳を解けっていうのよ――!」
心の叫びが声になった瞬間、ノックもなく休憩室の扉が開いた。
そこにいたのは見目麗しい私の義妹アリシア・フランクリン。
「あっ、お姉様。お倒れになったと聞いて心配しました」
聖女のような笑みが作り物だと知ってしまうとゾッとする。
その作り笑いが一瞬揺らぎ、視線がチラと出目ちゃんに向けられた。
見えるのかと思ったが、視線は定まらないまま私に戻ってくる。
「アリシア、レイモンド殿下は?
私を探してはいなかった?」
「会場で談笑しておいでです。お呼びしましょうか」
「いえ、私はもうしばらく休んでいくから、あなたも舞踏会を楽しんで。心配いらないから」
果菜の記憶があるせいか、ついいつもより口調が横柄になってしまった。
アリシアは違和感を覚えたようだが、「では、水を持ってくるよう頼んでおきます」とすぐに部屋から出ていく。
洗脳ターゲットにお近づきになるチャンスなのだから、時間が惜しいのだろう。
ここに来たのは、私が隠れて何かしているのではと気になって覗きにきただけ。
「出目ちゃん、行くよ」
「どこに?」
「新しいお家に帰るの」
休憩室を出た私は、ニールがまだ部屋の近く控えていたことに気づいた。彼は私を見ると駆け寄ってくる。
「もう治りましたか?」
「少し良くなりましたけど、このまま帰ろうと思います。
すいませんが、王太子殿下と、フランクリン公爵にそう伝えていただけますか?」
「馬車の手配もいたしましょうか?」
「いえ、当家の馬車が控えているので、それで戻ります。両親と妹はまだしばらくいるでしょうから、馬車はまたこちらに向かわせますわ」
承知しましたと立ち去るニールは、記憶にあるニールのままだった。
彼が最後に私に向けた軽蔑の眼差しは、きっとアリシアによる洗脳のせい。
たぶん、彼はまだアリシアの支配下にはないはず。
他の人たちもまだ。
ただ、アリシアと顔を合わせた直後の、レイモンドの高揚した表情だけが気になった。
彼はもしかしたらもう、アリシアの手に落ちかかっているのかもしれない。