第一話 絶望の舞踏会
アリシア・フランクリンは、美しく聡明な、私と半分だけ血のつながった妹。
フランクリン公爵家の輝く宝石。
フランクリン公爵家のあらゆる人々が彼女の笑顔に癒やされ、勇気づけられ、すべての人が彼女を愛している。
私より六歳年下の彼女は、今日、王宮舞踏会に初めて参加。
ライニール王国社交界に華々しくデビューした。
妖精か天使か、はたまた女神かというような可憐な姿で踊る彼女に、同年代の男性たちだけでなく、老若男女が見惚れている。
そして、ヒソヒソと囁き合う――。
「アリシア嬢が先に生まれていらしたら良かったでしょうに」
「レイモンド王太子殿下も、婚約相手がアリシア嬢だったなら心労もなくなるでしょうけれど」
「同じ名門フランクリン公爵家でも、母親が違うだけでこうも違うものとは」
人々の視線は王宮広間の壁の華……いえ、壁そのものと化した私に注がれる。
王太子殿下の婚約者である私、ラニア・フランクリンに。
不意に、人々がざわざわと騒ぎはじめ、振り返るとレイモンド王太子殿下の姿があった。
執務で遅れると使いの者から聞いてはいたが、朝早くから夜の帷が下りたこの時間まで働いても疲れた様子はない。
そういうふうに振る舞うことが、王太子の務めだから。
「ラニア、待たせてしまったな。こんな目立たない場所に立っていないで一曲踊ろう」
殿下が私に手を差し出したが、私はためらいがちに手を引っ込める。
「申し訳ありません、殿下。体調がすぐれず」
嘘をついてるわけではなかった。
フランクリン家の使用人は、前公爵夫人の娘である私にまともな食事を提供しない。そのため、一日の終りが近いこの時間になると立っているのも辛い。
体がその食事環境に適応してしまったらしく、会場にある豪勢な食事の香りにそそられても、実際に食べるとすぐ体調を崩してしまうから口にすることもできなかった。
フランクリン家でのこうした状況は、アリシアの母親である現公爵夫人が裏で糸を引いている。
使用人たちは嬉々としてそれに従っているが、それも仕方ないことだ。
『下賤なオペラ俳優と不貞を働き、逢い引きした馬車で半裸で強盗に殺害された公爵夫人』――それが私の母だ。
母の死は私が四歳の時。
突然母がいなくなって悲しかったことと、周囲の視線が急に変わって恐ろしくなった。
その後、今の公爵夫人がやってきて、アリシアとふたりの弟が生まれた。
私は、外部の目を気にしたのか公爵令嬢にそぐわしい部屋を与えられてはいたが、それは、公爵夫妻やアリシア、ふたりの弟とは離れた場所にあった。
私は、フランクリン家の名を貶めた女の娘として、息をひそめて暮らすしかなかった。
それなのに、なぜ王家との婚姻話が持ち上がったのか。
レイモンド王太子殿下や、王家の人々との接点らしい接点はなく、当然ながらフランクリン公爵家からもちかけた話とも思えなかった。
王太子にふさわしい教育を、私は受けていなかったから。
レイモンド王太子殿下の澄んだ紺碧の瞳。
それはいつも気遣うように私に向けられる。
孤独と諦念とで淡々と過ぎていく日々の中、フランクリン公爵家から出られるという一筋の希望。
しかし、その希望には計り知れないほどの責任が伴うこともわかっていた。
王太子妃は、礼儀作法や社交場でのマナーを独学で学んだ無能な令嬢がなれるものではない。
なってはいけない。
「レイモンド殿下、社交界デビューした私の妹と一曲踊っていただけませんか」
私の言葉に、殿下はチラと広間の人だかりに目をやる。
「どうやらあの中心にいるのが君の妹のようだな。今日社交界デビューということは、今年十六歳か」
「はい、殿下とは五歳違いです。妹のアリシアは私と違って聡明で、あのように何曲踊っても疲れることを知らない、とても健康な体も持っています」
「ラニア」
いつもは穏やかな表情の殿下が、厳しい眼差しを寄越す。
――自分は王太子妃にはふさわしくない。いずれ国王となる殿下をお支えするのは、聡明で、健康なご令嬢がふさわしい。
私はこれまで何度かそういった話を殿下にしてきた。
そのたびにレイモンド殿下は咎めるように私を見る。
王家にとってはフランクリン公爵家の力が必要なのであって、王太子妃の資質など二の次だから。
しかし、アリシアは私と同じフランクリン――。いや、私よりよほど正当なフランクリン公爵家の娘なのだ。
「……アリシアではいけませんか?」
殿下にだけ聞こえるほどの小声で口にすると、紺碧の瞳が揺らいだ。
「ラニア、なぜそのような」
「同じフランクリンであれば、どちらがより殿下の隣にふさわしいか。この会場にいらっしゃる方々はもうお気づきのようです」
私の言葉で殿下が周囲に目をやったとき、広間にいたアリシアがこちらに気づいて胸元に手をかざした。
会場の視線が一気に私と殿下に集まり、アリシアは当然のように人々の視線を受け止めながらこちらにやってくる。
「王国の小さき太陽にご挨拶申し上げます。フランクリン公爵家の娘、アリシア・フランクリンと申します」
殿下が声をかけるのも、私が紹介するのも待たず、アリシアはまっすぐ王太子殿下を見つめ自己紹介したあと、目の前でカーテシーをする。
私は慌てて「社交の場にデビューしたばかりですので」と取り繕おうとしたが、その必要はなかった。
「アリシア嬢、顔をあげよ」
そういったレイモンド殿下の眼差しは、私に向けられる気遣いの眼差しとは違い、好奇に満ちていた。彼の表情が、明るく輝いている。
「そなたは社交の場が性に合っているようだ。舞踏会は楽しんでいるか?」
「はい。こうして多くの方々と交流を持てるのは、とても楽しく、勉強になります」
「物怖じしないたちのようだな」
「与えられた機会は、神の加護だと考えております。それを活かすことが、神の子である私たちの使命かと」
「敬虔な信徒でもあるようだ」
「レイモンド王太子殿下、よろしければ、やっと大人への入口に立った娘アリシアと一曲踊ってはいただけませんか」
状況を察して慌てて駆けつけたのだろう。人混みの中から表れた父フランクリン公爵が酒に赤らんだ顔で恭しく頭を下げる。
彼の背後にいる公爵夫人は、口元にかざした扇子の奥で笑っているようだった。
「かまわないか、ラニア」
請うような眼差しに胸が痛んだ。
しかし、これは私が望んだことでもある。
こうやってひとつずつアリシアに私の場所を明け渡していけばいい。
「もちろんです、殿下。どうぞ楽しんでいらしてください」
レイモンド殿下が差し出した手に、アリシアの華奢な手が添えられる。
並んで会場へと向かうふたり。
その姿に妙な既視感を覚えた。
アリシアがチラとこちらを振り返り、向けられた微笑にゾッと悪寒が走る。
直後ズキッと頭が痛んだ。
人々の視線はすっかり舞踏会の二輪の華に向けられ、私は徐々にひどくなる頭痛に耐えながら壁伝いに会場を抜け出す。
喧騒が遠ざかるといっそう痛みはひどくなり、王宮の若い使用人が私を見るなり駆け寄ってきた。
「ご令嬢! 大丈夫ですか?」
柔らかい癖っ毛の、緑色の目をしたアリシアくらいの年頃の少年。
その顔を見た途端、足元の床が抜けるような感覚があり、私はその場に倒れ込んだ。