カフェ業務で大失敗
騎士団長・アルベルトがカフェを訪れる日々は、まるで、私がこの街に辿り着く前の、東京のあの場所で、同じ時間に電車がホームに滑り込んでくるように、寸分の狂いもなく繰り返された。
「カラン……」
店のドアの鐘が鳴る。その音は、もはや私にとって、彼の訪れを告げる、静かな、そして厳粛な合図だった。彼はいつも通り、無言でカウンターに座り、無表情のまま、私をじっと見つめる。その瞳は、私が淹れたコーヒーに映る、自分の顔を曇らせた。
私は、彼を観察し続けた。彼の甲冑には、小さな傷が無数についていた。それは、何かに擦れた傷ではなく、まるで、刃物で付けられたような鋭い傷だった。彼の剣は、背中にぴったりと貼り付いている。それは、ただの装飾ではなく、彼の体の一部なのだと、私には分かった。彼の存在そのものが、私にとっての「非日常」だった。
最初は、ただの困惑だった。なぜ、この無愛想な騎士団長は、毎日この辺境のカフェに来るのだろう。何か目的があるのだろうか。だが、日を追うごとに、私の心は「むずむず……」と音を立てていた。その音は、まるで、知りたいという好奇心が、私の胸を小さな爪で引っ掻くような、そんな音だった。
彼の存在は、私の「静かに暮らしたい」という願いに、風穴を開けた。その穴から流れ込むのは、静けさとは真逆の、ざわめき。それは、私が東京で、プロジェクトの成功という、目の前の光だけを追いかけていた頃の、あのざわめきと酷似していた。私は、再びそのざわめきの中に引きずり込まれるような、そんな気がした。
そんなある日、街に大きな行商団がやってきた。彼らは、色とりどりの荷物を載せた馬車を連ね、街の広場は、一気に活気を取り戻した。それと同時に、「木漏れ日のカフェ」も、かつてないほどの賑わいを見せた。
店内に、人々の話し声が「わいわい……」と響く。注文は次から次へと入る。私は、手動のミルを「ごりごり……」と回し、パン生地を「ぺしぺし……」と叩く。私の手は、まるで二つに分裂したかのように、休みなく動き続けた。
午前十一時の鐘が鳴る。
その瞬間、私の頭の中で、警告の鐘が「がん、がん、がん!」と鳴り響いた。
疲労の限界が来ていた。私の手は、コーヒーを淹れるための道具を、まるで初めて触るかのようにぎこちなく掴んだ。そして、不意に、手が滑った。
ドサリ!
テーブルに山積みにしていたパン生地が、床に落ちた。私は、顔から血の気が引いていくのを感じた。
「ああ……」
店内が、一瞬、静まり返る。そして、客たちの間で、さざ波のようなざわめきが広がっていく。
「何やってんだ、お嬢さん」
一人の行商人が、嫌味な声で言った。私は、何も答えられない。ただ、身体が「ぞわり……」と震えるのを感じた。
その瞬間、私の脳裏に、一つの光景がフラッシュバックした。
東京のオフィス。私は、完成したばかりのプレゼン資料を、床に落とした。白い紙が、私の足元に「ぱらぱら……」と舞い落ちる。
「お前にはまだ早いんだよ」
上司の声が、私の耳に蘇る。それは、私の心を「きりきり……」と締め付け、そして「がちゃ……がちゃ……」と、私の心の歯車を外し、私の人生を砂漠に変えた、あの声だった。
私は、自分が再び、あの地獄に引き戻されるような、そんな恐怖に襲われた。
その時、ドアの鐘が鳴った。
カラン、と。
騎士団長・アルベルトが、カフェに入ってきた。いつものように、定刻通りに。
彼は、店内に満ちる焦げた匂いと、私の顔に浮かんだ絶望、そして、床に落ちたパン生地を一瞥した。彼の瞳は、私を射抜くように、まっすぐに見つめた。
私は、この男に、一番見られたくなかった光景を見られてしまった。私は、何もかもを投げ出して、このカフェから逃げ出したくなった。
「すいません……今、すぐ片付けます」
私が震える声でそう言うと、アルベルトは、無言でカウンターに歩み寄った。
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アルベルトは、彼女の顔を見た。
その表情は、絶望と恐怖で歪んでいた。彼女の瞳は、私がかつて見た、戦場で仲間を失った時の、私の瞳と同じ色をしていた。彼女の心は、今、深い谷底に落ちていく最中なのだと、私には分かった。
彼女は、私の知っているどの女性とも違った。彼女は、この街の人々のように、単に平和に暮らすことを願っているわけではない。彼女の瞳には、私が知らない、深い悲しみが隠されていた。それは、かつて私が王都で、裏切りに遭った時の、あの絶望と同じものだった。
五年前に、私は戦場で部下を失った。
「団長、逃げてください!」
私のために、盾となってくれた部下の声が、今でも耳に響く。私は、彼らの死を無駄にしたくないと、ただひたすらに剣を振るった。しかし、王都の貴族たちは、私の功績を奪い、私を追放した。私の心は、その時、音を立てて砕け散った。
私は、彼女の中に、かつての自分を見た。彼女は、私のように、心を「ずりずり……」と引きずり、生きている。
私は、彼女が淹れてくれるコーヒーが好きだった。それは、私の心を「とくん……」と、弱々しく動かす、唯一の希望だった。
私は、彼女を救わなければならないと思った。言葉ではない、行動で。
私は、カウンターに歩み寄ると、床に落ちたパン生地を指差した。そして、無言で、その代金をテーブルに置いた。
その行動に、客たちは驚き、静かになった。私は、客たちの間に割り込み、彼女のカウンターの前に立った。誰も、私に文句を言おうとはしなかった。私の存在が、彼らを黙らせた。
私は、彼女にコーヒーを頼んだ。いつものように、無言で。
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彼の行動は、私の心を「どきん!」と震わせた。
彼は、何も言わずに、私の失敗の代金を支払った。そして、客たちを黙らせた。彼の背中からは、まるで巨大な盾のような、温かさと、安心感が伝わってきた。
私は、顔を上げ、彼を見た。彼の瞳には、怒りも、失望もなかった。ただ、深い静けさがあった。
私は、再びコーヒーを淹れた。今度は、手が震えなかった。私は、彼の瞳の中に、自分自身の顔を見た。そこには、絶望ではなく、少しだけ、希望の光が宿っていた。
彼は、一口飲むと、何も言わずに代金を置いた。そして、来た時と同じように、静かに、しかし重々しい足音を立てて去っていった。
ドアが閉まる音が、「ばたん!」と店内に響く。
私は、彼の去った後の椅子を見つめた。そこには、彼の痕跡など何も残っていない。だが、私の心の中には、彼の瞳が映っていた。そして、その瞳の奥に隠された、深い優しさを感じ取った。
私は、彼のことをもっと知りたいと思った。そして、彼の心を、私が淹れるコーヒーで癒したいと、強く願った。
私の「静かに暮らしたい」という願いは、彼の無言の優しさによって、「あなたを癒したい」という、新しい、そして温かい願いへと「とろり……」と溶け出していった。これは、私が知らなかった、新しい物語の始まりだった。
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この小説は、単なる恋愛ではなく 文芸、ファンタジー、スローライフ、グルメなど多岐にわたるジャンルを詰め込みました。その為、色々な方に楽しんでもらえると思っています。
どうか、宜しくお願いします。