第8回(終)
上田はベッドに横たわったまま、虚空の闇を見つめていた。林原が帰ってからどれくらいの時間が過ぎたのか、上田にはわからなかった。わずかに口を開き、乾いた唇を舐めた。完全な暗闇の中で、上田は自分が目を開けているのか閉じているのかもわからなくなっていた。
(いや…)
自分はたしかに目を開けているに違いない。なぜなら、もし目を閉じていれば、必ず瞼の裏の暗闇の中に、あいつらが現れるから。
あの、白い、ちっぽけなやつら。
最初に見たのはいつだったろうか。もう上田には思い出せなかった。とにかく、いつからか、上田が何か食べたり飲んだりしようとすると、そこには必ずあいつらが現れるようになった。上田のかじったパンの断面から、飲みかけのスープの入った皿の縁から、あいつらがもぞもぞと、這い出てきた。そのうち、上田が食べる前から、目にする食物はすべて、あの白い虫たちに侵食されていくようになった。
ある日、コンビニでビニール袋に入ったパンを棚から手にとると、袋の中で何十匹もの虫たちがもぞもぞと這いまわっていた。思わず息を飲んで、ぼうぜんとしていたが、ふと気づくと隣りに店員が不審そうに自分を見ている。パンに目をもどし、また店員を見た。店員も棚のパンに目を向けたが、何も言わず、そのままレジの方に立ち去った。店員の後姿を見送り、またパンを見る。パンはまるで風船のように膨らんでいた。しかし、それは空気ではなく、何百匹という、細長く白い虫たちが袋の中に充満していたからだった。虫たちの蠢くのに合わせてパンの袋がゆらゆらと揺れている…
上田はベッドから体を起こし、両手で顔をおおった。しかし、すぐに手を離すと、ふらふらとベッドから立ち上がった。もう何日も何も食べていない。しかし、食欲よりもあの虫たちへの嫌悪感の方が強く、不思議なほど空腹感はなかった。しかし、体力は限界まで落ちている。上田は2歩歩き、何かにつまずいてそのままくず折れた。そのまま数分間うずくまっていたが、わずかに体を起こすと、そのまま這って寝室を出た。廊下には明かりがついていたが、上田のかすむ目には、ただぼんやりとした、淡い色の混じった空間が見えるだけだった。
(あれは…林原さんの声だったのか)
ふと目を覚ますと、ベッドで寝ている自分に誰かが話しかけていたような気がした。いや、そんな夢を見たのかもしれなかった。上田は廊下を這って、リビングの入り口を探していた。これが夢ではないという確信はなかった。あの虫たちも自分の幻想かもしれなかった。しかし、それが実在していようが、ただの妄想だろうが、上田にとってはもはやどうでもいいことだった。
リビングのテーブルの脚にすがりながら、上田は立ち上がり、テーブルの上に手をついて体を支えた。テーブルの真ん中に藍色の包装紙に包まれた箱が置いてあった。箱を手にとって耳をつけてみたが、何の物音もしない。包装紙を破りとり、箱をテーブルに置いて蓋をとる。中には大粒のいちごがきれいに2列に並んでいた。上田はその中からひとつつまみ出して、目の高さに持ち上げた。いかにもみずみずしく果汁の詰まったいちご。上田は自分の中に食欲も空腹も存在していないような気がした。それでも上田の中のなにか、それは生存本能なのか、それともあいつらに対する復讐心のような感情なのか、上田自身にも説明できない、というより意識することもできない衝動が、目の前の赤い果物を上田の口に運ばせた。いちごのとがった先を、ほんの数ミリかじりとる。何の味もしない。上田はいちごのかじりとった跡を見た。赤く縁どられた白い果肉。その断面からしずくが一滴、テーブルにしたたり落ちた。それは上田のかすんだ眼でかろうじて識別できるくらいの小さな点だった。しかし、それでもすぐに上田は、それがゆっくりと、テーブルの上を移動していくのがわかった。上田は、目を上げて手に持ったいちごを見た。断面にはびっしりと白い小さな虫たちがひしめきあって、目のない頭を四方八方に動かしていた。それは極小の、白く透き通ったイソギンチャクのように見えた。1匹、また1匹と、断面からテーブルに落ちていく。
上田は白い虫たちのダイビングをうっとりと眺めていたが、やがて眼を閉じて、口を大きく開けると、手にしたものを口の中に放り込んだ。たちまち口の中に無数の小虫たちが蠢く感触が広がった。上田は夢中で口を動かし咀嚼した。
「ふう…」
ごくりとのどを鳴らして、口の中のものを飲み込むと、上田はテーブルに両手をついて、大きく息を吐いた。上田は涙の滲んだ眼を開けて、自分の両手を見た。それはろうそくのような白い光沢を放っているように見えた。次の瞬間、上田は崩れるように膝を折り、その場に倒れた。
遠くで救急車のサイレンが聞こえる。真っ暗なリビングの中では、床を這う蛇のように、かすかな音が聞こえ始める。上田の白く滑らかな肌にかすかな亀裂が入り、蜂の巣のような構造が表面に現れる。それは象牙細工の蛇の鱗のようにわずかに盛り上がる。上田のからだは硬直したように動かないが、皮膚表面だけは活発に活動を続けている。鱗の模様はさらに凹凸がはっきりしてくる。そのひとつひとつの隆起が独立して蠢動を始める…と、その中の一つがぽんっと音がするように表面から飛び出す。それは針で突いた跡のくらいの黒い2つの眼をもった、白い幼虫だ。ぽん…ぽん…と次々と、無数の白い虫たちが皮膚の表面から顔を出し、そこから抜け出そうとするかのように、小さなからだをくねらせる。今や、上田の体表全体がさざめくような運動で埋め尽くされている。
こわばった指先を1匹の虫が這い上がり、ぽとりと床に落ちる。それを合図のようにして、髪から、耳から、口から、からだのいたるところから、虫たちがぽろぽろと床に落ちていく。虫たちの落下は加速度的に増加し、全体が白く光る流れのようになっていく。シャツとズボンがなければ、それが人間の姿だったことはもうわからない。かつて人間のかたちをしていたものは微小な白い虫の集合となり、ぞろぞろと四方へ散っていく。彼らはいくつかの大きな流れとなって、あるのものはリビングから廊下へ、さらに玄関からドアの隙間を這い出ていく。別のあるものはキッチンの壁を這い上り、シンクの排水口や換気扇から、マンションの部屋にある様々な隙間から外部へ移動していく。
午前6時。寝室の置時計からアラームが鳴り始めた。リビングの床の上のシャツの襟が、カーテンの隙間から漏れた朝日に照らされて、ゆらゆらと揺れていた。その襟の先で、白い虫の最後の1匹が、まだ行き先を決めかねているように小さな先端をうねらせていた。
なかなかまとまらず、いつもの倍くらいかかってしまった。
「蟻の巣」より3000字くらい少なかったのに、むしろ難しかったです。




