第7回
「おまたせ」
20分ほどしてマンションから出てきた林原は、ぼんやりと植え込みの角に座っている宇野に声をかけた。
「早かったですね…どうでした上田さん」
林原は首を振った。
「彼、玄関を開けて中に入れてくれたんだけど、すぐにベッドにもどって寝てしまったの」
駅に向かってふたりは歩き出した。駅に近づくにつれ、夕方の通りは人通りも多く、たいして繁華でもないこのあたりでもかなりの喧騒だった。しかし、林原にはそうした騒々しさがやけに遠く、まるで見えないゴムの壁を通して聞こえてくるような気がした。
「別に私が来たことを嫌がってるとかそういう感じでもないんだけど…なんていうか…」
いつもの明快な話しぶりからは想像もできない林原の口調に、宇野は驚いた。林原はひとりごとのように話し続けた。
「私の来たことに、ほとんど興味ないっていうのかしら。私を見ても何も言わなかったの。ぜんぜん驚いた様子もなくて…とにかく明かりもつけずにさっさと寝室に行ってしまって…」
宇野は眉をひそめた。
「上田さん、やっぱり病気でしょうね。林原さんがわざわざ来たのに何も言わないなんて、いつもの上田さんじゃないですよ」
林原も暗い顔でうなずいた。
「玄関を開けてもらったとき、ちらっと見たんだけど、彼、おそろしく痩せてたの」
上田のやつれきった顔はすぐに部屋の暗がりの中で見えなくなってしまったが、もし別の場所で見たとしたら、とうてい彼だとはわからなかったろう。林原は上田の顔を思い出して、思わず足を止めた。
「そのまま奥に行ってしまって…私もすっかり気が動転しちゃって、そのとき何を言ったか思い出せないけど…とにかくおみやげをテーブルに置いて、上田を追いかけて奥に行ったの」
ふたりは人の流れを止めないように、歩道の脇に移動した。ふたりはしばらく肩を並べて、通勤帰りの人たちが足早に通り過ぎるのを眺めていた。宇野が続きを促すように林原の方を見ると、林原はまっすぐ前を見ながら、言葉を続けた。
「奥は寝室みたいだったわ。ほとんど何も見えないくらい暗い部屋で、上田くんはベッドに横になってた。そのときも、私、何を話したのか、全然思い出せないんだけど…」
暗闇の中で林原が話している間、ベッドの上の上田は身動きひとつしなかったが、彼女が何かに言及したとき、闇の中で上田のからだがかすかに動くのがわかった。
「何…何の話でした?仕事のことですか?」
「さっきも言ったけど、私もよくおぼえてないんだけど…」
林原が眉をしかめながら、あごを右手の指でつまんだ。
「たしか…いちごの話だったと思う」
宇野は拍子抜けしたような顔で、林原を見た。
「いちご?」
「うん。ほら、お見舞いでさっき買ったいちご」
「ああ…」
宇野はすっかり忘れていたが、それを思い出したからといって、特に納得がいったわけでもなかった。
「いちご…上田さん、いちご、好きだったんですか?」
「知らないわよ。でも、私がなにげなく、お見舞いのいちごの話をしたら、上田くんがこっちを見た、ような気がしたの。部屋はまっくらだったから、実際どうだったかはわからないけど…」
そのとき、林原は上田が自分の方に顔を向けたのはたしかだと思っていた。暗闇の中で上田の目が、一瞬だけ目だけが光って見えたのだ。その目にはたしかに恐怖が宿っていた。林原は、それが自分の胸に突き刺さるように感じたのを、こうして宇野の話をしながら思い出していた。しかし、彼女自身にもよくわからない理由で、林原はそのことを宇野には話さなかった。




