第6章:永遠の一瞬
十月の午後、螢子は鷹取の遺稿『最後の光』の校正刷りに目を通していた。神代からの電話で、出版の準備が着々と進んでいることを知らされていた。
「編集長も、先生の原稿に深く感銘を受けているそうです」
受話器の向こうの神代の声には、晴れやかな響きがあった。
「かずは、本当によかったわ」
「ええ。でも、まだ終わりじゃない。僕は、この本を通じて、先生の想いを確実に読者に届けたい」
螢子は微笑んだ。神代の中で、確かに何かが変わっていた。それは、鷹取との出会いがもたらした小さな奇跡なのかもしれない。
「ところで……」
神代の声が、少し躊躇うような調子に変わる。
「出版記念会を、湯川屋で開催できないかな」
螢子は、思わず息を呑んだ。
「この本は、先生が最期まで湯川屋で書き続けた作品だ。だから、その旅立ちの場所も、ここであるべきだと思うんだ」
螢子は、窓の外に目をやった。庭の木々は色づき始め、秋の深まりを告げている。
「素敵な提案だわ。私たちにできる精一杯のおもてなしで、皆様をお迎えしましょう」
その日から、湯川屋は新たな活気に包まれた。出版記念会の準備が、従業員たちの新しい目標となった。
きよを中心とした女性陣は、おもてなしの料理の献立を練り、若い従業員たちは館内の装飾を担当する。神代が提案した予約システムは、この大きなイベントを前に、その真価を発揮し始めていた。
「お嬢様」
ある朝、きよが女将室を訪れた。
「皆で相談したんですが……出版記念会の日は、先生がお好きだった螢籠も飾らせていただけないでしょうか」
螢子は、思わず目を潤ませた。
「素晴らしい提案よ。きっと先生も、喜んでくださると思います」
準備の最中、螢子は時折、鷹取の原稿に目を通していた。そこには、一人の人間の魂の全てが込められているように感じられた。
『人は、自分一人では生きられない。誰もが、誰かの想いの中で生き、誰かの記憶の中で永遠に息づいている――』
その一節に触れるたびに、螢子は深い感動を覚えた。それは、自分たちが受け継いできた湯川屋の精神そのものだったから。
出版記念会の前日、神代が東京から戻ってきた。
「ただいま戻りました」
フロントに立つ神代の姿は、以前よりも凛々しく見えた。
「お帰りなさい」
螢子の答えに、二人は微かに目を合わせ、そして微笑みを交わした。
夕刻、二人は中庭のベンチに腰かけていた。秋の夜風が、かすかに木々を揺らしている。
「不思議だね」
神代が、静かに言った。
「先生の死をきっかけに、多くのものが変わっていった。でも、それは決して悲しいことばかりじゃなかった」
螢子は頷いた。
「生と死は、表裏一体なのかもしれないわ。死があるからこそ、生は輝きを増す……」
「ほたる」
神代が、真剣な眼差しで螢子を見つめた。
「あの日、この旅館に戻ってきて、本当によかった。先生との出会いも、そして……君との再会も」
螢子は、静かに神代の手を握った。その手の中に、十年の時を超えた想いが、確かに息づいていた。
夜が更けていく。二人は、まだ語り合っていた。明日という日を、そしてその先の未来を。
螢子の心の中で、父の言葉が蘇る。
(人は、誰かのために生きることで、自分の人生の意味を見出すのです)
今、その言葉の真意が、深く胸に染み渡っていく。
庭の片隅で、季節外れの螢が、静かに光を放っていた。