幕間:時の流れの中で(きよの独白)
夜が明ける前、私は毎朝欠かさず仏間の掃除をする。四十年以上続けてきた日課だ。今朝も、ほの暗い廊下を静かに歩む。年齢のせいか、最近は膝が少し痛むようになった。でも、この時間は決して欠かすことはできない。
仏壇に灯る蝋燭の炎が、闇の中でゆらめいている。清明様の遺影に、か細い光が届く。その隣には、奥様の写真。そして、代々の当主たちの位牌が並ぶ。
「今朝も、お掃除に参りました」
低く呟きながら、私は丁寧に塵を払う。
清明様が亡くなられてから、もう三ヶ月。あの方は本当に良い方だった。従業員のことを、自分の家族のように思ってくださった。お客様への心遣いも、細やかで温かだった。
「清明様、螢子お嬢様は立派に成長なさっています」
磨き上げた位牌に、私の顔が映る。六十を過ぎた顔には、深い皺が刻まれている。でも、この皺の一本一本が、湯川屋との思い出なのだと思う。
十八で女中として入った時のこと。右も左も分からない私を、当時の女将様が優しく導いてくださった。お客様への作法、仕事の段取り、そして何より、おもてなしの心を教えていただいた。
「もし、神様がいらっしゃるなら、私をこの湯川屋に導いてくださったことに、心から感謝申し上げます」
窓の外が、少しずつ明るくなってきた。今日も忙しい一日になるだろう。特に最近は、鷹取先生のご容態も気になる。先生の咳が聞こえるたびに、胸が締め付けられる。
でも、先生は不思議な方だ。死を目前にしながら、まるで光を放つように、穏やかな笑顔を絶やさない。その姿は、私に多くのことを教えてくれる。
「命というものは、本当に不思議なものですね」
仏壇に新しい線香を立てながら、螢子お嬢様のことを考える。
あの子は、私が最初に抱かせていただいた赤ちゃんだった。小さな手で私の着物をぎゅっと掴んだ時の感触を、今でも覚えている。よちよち歩きをする姿を見守り、転んで泣いた時は抱きしめ、成長と共に凛とした女性になっていく様を、この目で見てきた。
だから、分かるのだ。お嬢様の中にある、強さと優しさ。それは、清明様から受け継いだ大切な何か。でも、それだけではない。お嬢様ならではの、新しい輝きもある。
「神代様のことも、お気付きでしょう?」
清明様の遺影に語りかける。神代様が戻ってきた時、正直、私は不安だった。都会での挫折を抱えた方が、この旅館で働けるのだろうかと。
でも、今は違う。神代様の真摯な姿勢に、私も心を開かされた。特に先日の予約システムの説明の時は、本当に感動した。難しい話を、私たちにも分かるように、ていねいに説明してくださった。
「お二人には、きっと清明様も目を細めていらっしゃることでしょう」
ふと、耳に懐かしい音が届く。廊下を走る小さな足音。振り返ると、まだ五つだった螢子お嬢様が、はしゃぎながら駆けていく幻が見えたような気がした。
時は流れ、人は変わっていく。でも、変わらないものもある。この旅館が守り続けてきた、おもてなしの心。代々受け継がれてきた、人を想う気持ち。
私は立ち上がる。膝の痛みも、今は懐かしい友人のようだ。
「さあ、今日も一日が始まります」
仏間を出る前に、もう一度振り返る。蝋燭の炎が、まるで頷いているように揺れた。
廊下を歩きながら、今日の仕事を頭の中で整理する。お客様のお見送り、新しいお客様のお迎え、お部屋の点検、若い仲居たちの指導……。そして何より、鷹取先生のお世話。
私にできることは、もう多くはないかもしれない。でも、この湯川屋の歴史の中で、私なりの役目を果たしていきたい。
その想いが、しみじみと胸に染みる朝だった。
東の空が、うっすらと明るみを帯び始めている。新しい一日の始まりを告げるように、どこかで鳥のさえずりが聞こえた。