第5章:明日への轍
九月初旬の夜明け前、螢子は鷹取の枕元で目を覚ました。老作家の呼吸は、かすかに、しかし確かな音を立てている。
机の上には、完成した原稿が置かれていた。『最後の光』――その表題が、朝もやの中でぼんやりと浮かび上がる。
「……蛍子さん……」
か細い声に、螢子は我に返った。
「先生、お水を飲みますか?」
「いや、その……原稿を」
鷹取は、震える手で原稿用紙を指さした。螢子は慎重に原稿を手に取り、老作家の視線の先で頁をめくる。
「これが、私の……最後の言葉になる」
鷹取の目は、深い光を湛えていた。
「人は誰でも、自分の人生の意味を探している。でも、その答えは……実は、とても単純なんだ」
螢子は息を呑む。
「生きるということは、誰かの記憶の中に、永遠に生き続けることなんだよ。たとえ肉体は滅びても、その人が残した言葉や、想い出や、かけがえのない瞬間は、決して消えはしない」
老作家は、かすかに微笑んだ。
「私は幸せ者だ。この湯川屋で、人生の始まりと、そして最期を……迎えることができた」
その時、日の出の最初の光が、部屋の障子を染め始めた。
「先生!」
螢子は、老作家の手が冷たくなっていくのを感じた。
「ありがとう……」
それが、鷹取岳陽の最後の言葉となった。
葬儀は、実に静かに執り行われた。遺言により、参列者は最小限に抑えられた。その代わり、全国の新聞が鷹取の訃報を大きく報じ、多くの追悼文が寄せられた。
遺品の整理は、神代が買って出た。
「これが……先生の原稿です」
神代は、丁寧に整理された原稿を螢子に手渡した。
「最後まで、書き切ったんですね」
螢子は、涙を堪えながら頁をめくった。そこには、一人の作家の魂の全てが、凝縮されていた。
しかし、それは終わりではなかった。むしろ、新しい始まりだった。
数日後、大手出版社から連絡が入った。鷹取の遺作『最後の光』の出版を希望するという。
「担当編集は、私が務めさせていただきたい」
神代の声には、強い決意が込められていた。
「これは、僕の贖罪でもあるんです。あの時、見捨ててしまった作家への」
螢子は、静かに頷いた。神代の中で、何かが確かに変わり始めている。それは、鷹取が残した最後の贈り物なのかもしれない。
その夜、螢子は父の仏壇の前で長い時間を過ごした。
「お父様、私たちは、先生から大切なことを学びました。命には限りがある。でも、想いは永遠に続いていく」
窓の外では、季節外れの螢が、一匹だけ淡い光を放っていた。
翌朝、螢子は従業員たちを集めた。
「皆さん、私から重要なお知らせがあります」
全員の視線が、螢子に注がれる。
「湯川屋は、これから大きく変わろうとしています。神代さんが提案してくれた新しいシステムも、その一つです。でも、それは決して伝統を捨てることではありません」
螢子は、一人一人の顔を見つめた。
「先生は教えてくれました。変わりゆくものと、変わらないものの違いを。私たちは、この旅館の魂は守りながら、新しい時代に合わせて進化していかなければならない」
きよが、目頭を押さえながら頷いた。
「伝統とは、火を守ることです。でも、その火は常に新しい命を宿している。私たちは、その両方を大切にしていきましょう」
従業員たちの表情が、少しずつ明るさを取り戻していく。
その日の午後、神代は出版社との打ち合わせのため、一時的に東京へ戻ることになった。
「必ず戻ってきます」
出発前、神代は螢子にそう告げた。
「ここには、僕の居場所があるから」
螢子は、微笑みながら頷いた。
「待っています」
神代を見送った後、螢子は庭に立ち、深く息を吸い込んだ。九月の空気は、すでに秋の気配を帯びている。
(変わりゆくもの、変わらないもの)
鷹取の原稿を、もう一度読み返そうと思った。そこには、きっと自分たちの進むべき道が、示されているはずだから。