幕間:雨上がりの空(一葉の独白)
私は窓辺に立ち、宿の庭を見下ろしていた。雨は上がったものの、空はまだどんよりとして、時折細かな雨粒が舞い落ちる。苔むした石畳が、しっとりと濡れて艶を帯びている。
今朝も、あの悪夢で目が覚めた。いつもと同じ夢だ。明るいオフィス。机の上に積まれた原稿。そして、締め切りに追われる日々。私は机に向かい、ページをめくる。一枚、また一枚と。しかし、文字が読めない。いや、読もうとしない。恐ろしくて、その言葉と向き合えないのだ。
「神代さん、この原稿……」
夢の中で、彼女の声が響く。佐伯志麻、三十二歳。新進気鋭の女流作家。彼女の処女作『深き森の片隅で』は、私が担当編集者として世に送り出した作品だった。清冽な文体と深い洞察、そして何より、人間の魂を揺さぶるような力を持つ小説。それは私にとって、誇りであり、喜びだった。
しかし、二作目は違った。彼女の原稿には、見えない重みが加わっていた。それは存在そのものを問う問いかけであり、読む者の魂を深淵へと誘う力を持っていた。私は……怖くなった。その言葉の重みに耐えられなくなった。
「まだ……もう少し推敲が必要かと」
私は原稿を突き返した。一度、二度、そして三度。彼女の目が、少しずつ光を失っていくのが分かった。最後に会った日、彼女は窓の外を見つめたまま、静かにこう言った。
「もう、書けません」
それきり、彼女は筆を折った。文壇からも姿を消し、消息も絶えた。私は彼女の言葉を殺したのだ。一人の作家から、その存在意義を奪ってしまった。
重い脱力感と共に、私は会社を辞めた。心身の不調を理由に。しかし本当は、自分の弱さから逃げ出したのだ。
そして、ここに戻ってきた。十年ぶりの故郷。変わらない景色。しかし、全てが違って見える。かつては窮屈に感じた温泉街の路地も、今は不思議な安らぎを与えてくれる。
ほたる……。
螢子の姿を思い浮かべる。彼女は変わっていなかった。いや、違う。芯の強さは、より確かなものになっていた。父の死を乗り越え、伝統と革新の間でもがきながら、それでも前を向いて歩き続けている。
そして、鷹取先生。
先生の原稿に触れるたび、私は震える。あの重み。しかし今度は、逃げ出すわけにはいかない。私には、贖罪すべき過去がある。一人の作家の魂を殺めてしまった過去を、ただ忘れ去ることはできない。
庭の片隅で、一匹の螢が光る。雨上がりの空気の中、その光は一層鮮やかに見える。ふと、かつて螢子と過ごした夏の夜を思い出す。螢を追いかけ、笑い合った、あの頃。純粋な輝きを信じることができた、あの時代。
「鷹取先生……」
私は呟く。先生の言葉には、確かな重みがある。しかし、その重みは人を押しつぶすものではない。むしろ、魂を解放する力を持っている。それは私が失ってしまった何か、本来持っていたはずの何かを、思い出させてくれる。
机の上には、先生の原稿が置かれている。『最後の光』。私は、この作品を必ず世に送り出す。それは私の贖罪であり、再生への一歩となるはずだ。
雨上がりの空が、少しずつ明るさを増していく。まるで、私の心の中を映し出すように。
「志麻さん……いつか、あなたとも必ずお会いします。その時は……」
言葉は、闇の中で途切れた。しかし、確かな決意が胸の中で形を成している。私は、もう逃げない。言葉の持つ重みと、真摯に向き合っていく。それが、編集者としての、そして一人の人間としての、私の責任なのだから。
窓の外で、また一つ螢が光った。その瞬間の輝きに、私は勇気をもらった気がした。