第4章:灰色の雨
八月の終わり、突如として冷たい雨が街を覆った。残暑の中に、早すぎる秋の気配が忍び寄る。
螢子は診察室の前で、黙って医師の言葉に耳を傾けていた。
「残念ですが、鷹取さんの状態は急速に悪化しています。あと一週間……いや、一週間も保たないかもしれません」
覚悟はしていた。それでも、現実を突きつけられる痛みは、想像以上だった。
「先生のご希望通り、最期まで湯川屋で……」
「ええ。今の段階で入院しても、延命治療にしかなりません。ご本人の意思を尊重するのが最善でしょう」
螢子が湯川屋に戻ると、神代がフロントで彼女を待っていた。
「どうだった?」
神代の声には、深い憂いが滲んでいる。螢子は小さく首を振った。言葉は必要なかった。
二人で鷹取の部屋に向かう。廊下の窓から見える庭では、雨が苔を打ち、かすかな音を立てていた。
「先生、失礼します」
返事がない。部屋に入ると、鷹取は原稿用紙の前で、深い眠りに落ちていた。机の上には、びっしりと文字の書き込まれた原稿が積まれている。
「無理をなさっているのね……」
螢子が毛布をかけようとした時、一枚の原稿が床に滑り落ちた。拾い上げようとして、螢子は思わずその一節に目を留めた。
『人は何のために生まれ、何を残して死ぬのか――その答えは、実は誰もが知っている。ただ、気付かないふりをしているだけなのだ。生きることは、それ自体が答えなのだから』
螢子の目に、涙が浮かんだ。
その夜、神代は珍しく酒を求めた。二人は女将室で、古い日本酒を酌み交わす。
「実は、話があるんだ」
神代の声が、暗い部屋に響く。
「東京で、本当は何があったのか……全部、話しておきたい」
螢子は黙って頷いた。グラスに注がれた酒が、月明かりに照らされて揺れている。
「出版社での仕事は、順調だった。でも、ある作家の原稿を担当することになって……その人の小説に、心を奪われてしまったんだ」
神代は、どこか虚ろな目で続けた。
「彼女は、生きることの意味を問い続ける作家だった。でも、その問いの深さに、僕は耐えられなかった。締め切りに追われる日々の中で、その言葉の重みに押しつぶされそうになって……」
グラスが、か細い音を立てる。
「結局、僕は彼女の原稿を、出版できないまま打ち切りにしてしまった。そして、彼女は……」
神代の声が途切れる。
「……自ら命を絶った?」
螢子の問いに、神代は深くため息をついた。
「いや、死んではいない。だがもう心は死んでしまった。だから小説は書いていないんだ。僕は、一人の作家……人間を廃人にしてしまった。作家からすべての言葉を奪ってしまった。それが、僕の罪なんだ」
雨の音が、二人の沈黙を埋めていく。
「だから、鷹取先生の姿を見ていると、胸が締め付けられるんだ。必死に言葉を紡ごうとする姿に……僕らには、その重みを受け止める資格があるのかって」
螢子は、静かに神代の手に触れた。
「誰にでも、過ちはある。でも、あなたは逃げなかった。その問いをちゃんと持ち続けている。そして、ここに戻ってきて、新しい一歩を踏み出した」
「ほたる……」
神代は、十年ぶりに螢子の目をまっすぐ見つめた。
「本当は、君に会いたくて戻ってきたんだ。でも、こんな僕には……」
その時、激しいせき込む声が廊下に響いた。二人は反射的に立ち上がる。
「先生!」
鷹取の容態は、その夜から急速に悪化した。医師が往診に訪れ、モルヒネの投与を開始する。意識は朦朧としながらも、老作家は原稿用紙を手放そうとしなかった。
「まだ……終われない。この物語を、完成させなければ……」
螢子は、鷹取の手を握りしめた。その手は、冷たく、骨ばって、それでも確かな力を宿していた。
雨は、なお降り続けていた。まるで天が、この世の無常を嘆いているかのように。
しかし、その灰色の空の下でさえ、生は確かに息づいている。それは螢子にも、神代にも、そして今まさに死と向き合う鷹取にも、共通する真実だった。
夜が明けようとしている。螢子は、窓辺に立って祈るように手を組んだ。
(お父様、私に力を与えてください。この大切な命の最期を、しっかりと看取れますように)
東の空が、わずかに明るさを増していた。