幕間:宵闇の光(蛍子の独白)
もう深夜だというのに、私は女将室で目が冴えている。障子越しに差し込む月明かりが、畳の上に淡い影を落とす。父の遺影に微かな光が届き、穏やかな笑顔が浮かび上がって見える。
「お父様……」
声に出して呼びかけると、懐かしい記憶が押し寄せてくる。幼い頃、父に手を引かれて館内を巡回した日々。朝一番に庭の手入れをする父の後ろ姿。そして、この女将室で夜遅くまで帳簿とにらめっこをしている父の横顔。
父は、本当に湯川屋が好きだった。それは単なる仕事場としてではなく、人生そのものとして。だからこそ父は、最期の時まで微笑みを絶やさなかったのかもしれない。
「私にも、やっとわかってきました」
机の上には、今日も積み重なる書類の山。神代……かずはが提案した新しい予約システムの資料も、その中に混じっている。かずはが戻ってきた時、正直、戸惑いがあった。十年という時間は、私たちの間に深い溝を作ったように思えた。
でも、今は違う。
かずはの真摯な眼差しに、私は昔を思い出す。いつも図書館で本を読んでいた少年。夢を語る時の輝くような瞳。そして、夏の夜に一緒に螢を追いかけた、あの頃の純粋な想い。
窓の外を見やると、庭の片隅で螢が光っている。その光は、まるで私の心を映し出すように、迷いながらも、それでも確かな輝きを放っている。
鷹取先生のことを思う。
先生の咳が、日に日に深くなっている。それでも先生は、まるで時間との戦いのように、原稿を書き続ける。時折その姿を見かけると、胸が締め付けられる。先生の人生の最期の時を、この湯川屋で受け止めることができるのか。その重みに、私は耐えられるのか。
「でも、逃げるわけにはいきません」
独り言のように呟く。そう、これは私の宿命なのだ。代々受け継がれてきた湯川屋を守ること。そして、新しい時代の中で、どう進化させていくのか。その答えを、私は必ず見つけなければならない。
父の言葉を思い出す。
「螢子、この旅館は人々の人生の一部なのだよ。だから私たちは、その想いを大切に受け止めなければならない」
今、その言葉の意味が、深く心に染み入る。
鷹取先生は、この旅館で処女作を書き上げ、そして最後の作品もここで書こうとしている。かずはは、傷ついた心を抱えてここに戻ってきた。古くからの常連のお客様たちは、それぞれの人生の節目で、この場所に立ち寄ってくださる。
私は立ち上がり、窓際に歩み寄る。月明かりの下で、庭の木々が静かに揺れている。昼間のように細部は見えないけれど、それでも確かな存在感を感じる。まるで、この旅館の歴史のように。
「きっと、大丈夫」
心の中で、強く念じる。かずはがいる。きよさんをはじめとする従業員たちがいる。そして、鷹取先生から学んだ大切な何かがある。一人ではない。決して一人ではないのだ。
ふと、机の引き出しに視線が行く。そこには、かずはが子供の頃にくれた古い手紙が、今でも大切にしまってある。夢を追いかけて東京に行くことを告げた手紙。その時の私は、どんな顔をして読んでいただろう。
「かずは……」
その名を呟くと、懐かしさと共に、新しい感情が胸の中で膨らむ。それは、かつての想いとは少し違う。より深く、より確かな何か。
螢の光が、また一つ瞬く。それは儚い輝きでありながら、確かな永遠を宿しているように見える。私たちの人生も、そうなのかもしれない。一瞬一瞬は過ぎ去っていくけれど、その中に永遠の意味が刻まれている。
女将室の時計が、静かに時を刻んでいく。もうすぐ夜が明ける。新しい一日が、また始まろうとしている。
「さあ、今日も頑張りましょう」
父の遺影に微笑みかけ、私は立ち上がる。今日という日も、きっと大切な一日になるはずだから。