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第3章:還らざる風

 七月に入り、梅雨が明けた。蝉の声が境内の欅の大樹に響き、夏の訪れを告げていた。


 螢子は湯川屋の古い帳簿を整理しながら、時折窓の外を見やる。神代が戻ってきて一月が経ち、彼は着実にフロント業務を習得していった。都会で培った接客スキルは、古びた旅館に新しい風を運んでくる。


 しかし、その「変化」は、必ずしも歓迎されるものばかりではなかった。


「お嬢様、神代さんのことなんですが……」


 きよが女将室を訪れたのは、その日の午後のことだった。


「何かありましたか?」


「あの方が導入したいとおっしゃる予約システムのことです。確かに便利なのかもしれませんが、私たちのような旅館に、そんな新しいものが必要かどうか……」


 螢子は深いため息をつく。伝統と革新――その狭間で揺れる想いを、彼女は日々感じていた。


「きよさん、少し庭を歩きませんか?」


 二人は縁側から庭に降り立った。苔むした石畳の上を、そっと歩を進める。


「この苔、何年かけて育ったと思います?」


 螢子の問いに、きよは首を傾げた。


「五十年、いや、もっとでしょうか……」


「この苔も最初は小さな胞子から、この石に根付いたはずです。伝統とは、その時々の『新しい試み』が、時を経て深く根付いたものではないでしょうか」


 きよは黙って螢子の言葉に耳を傾けた。


「私たちは、変わりゆくものと、守るべきものを、しっかりと見極めていかなければならないのだと思います」


 その時、二階の廊下を駆ける足音が聞こえた。


「お嬢様! 鷹取先生が!」


 螢子の心臓が凍る。急いで二階に上がると、鷹取の部屋からうめき声が漏れていた。


 容態の急変だった。救急車を呼び、病院に搬送される間、螢子は鷹取の手を握り続けた。その手は、冷たく、震えていた。


「迷惑をかけてすまない……」


 か細い声で、鷹取はそうつぶやいた。


「でも、まだ死ねないんだ。あの小説を、書き上げるまでは……」


 病院で一晩を過ごした鷹取は、翌日には湯川屋に戻ることを強く希望した。


「ここで、最期まで書き続けたい」


 その意志は、誰にも曲げることができないものだった。


 その夜、螢子は神代と中庭のベンチで話をしていた。月明かりが、二人の間に淡い光を落としている。


「本当に、大丈夫なのかな」


 神代の声には、深い憂いが滲んでいた。


「鷹取先生のことも、この旅館のことも、そして……君のことも」


 螢子は月を見上げた。


「私にも、分からないわ。でも、逃げるわけにはいかない。これが、私に与えられた宿命なのだから」


「宿命か……」


 神代は苦笑いを浮かべる。


「僕は、その宿命から逃げ出した。東京で、全てを投げ出して」


「そうじゃないわ」


 螢子は静かに、しかし強い口調で言った。


「あなたは、ここに戻ってきた。それは逃避ではなく、新しい始まりよ」


 神代は黙って螢子の横顔を見つめた。月の光に照らされたその表情は、十年前の少女の面影を残しながら、確かな強さを湛えていた。


 翌朝、螢子が鷹取の部屋を訪れると、老作家は原稿用紙に向かっていた。


「おはようございます。お体の具合は……」


「ああ、もう大丈夫だよ」


 鷹取は穏やかな笑みを浮かべた。


「この小説が、私の最後の仕事になる。だから、魂の全てを注ぎ込むつもりなんだ」


 原稿用紙には、細かな文字が躍っていた。


「人は、自分の死を前にして初めて、生きることの本当の意味に気付くのかもしれない。私は今、それを言葉にしようとしているんだ」


 螢子は、老作家の言葉に深く頷いた。生と死、存在の意味――それは誰もが向き合わねばならない問いなのだ。


 その日の夕方、神代が新しい予約システムのプレゼンテーションを行った。従業員たちは最初こそ戸惑いを見せたものの、神代の熱意と誠実さに、次第に心を開いていった。


「神代さん、私たちにも分かりやすく説明してくださって、ありがとうございます」


 きよの言葉に、神代は照れたように頭を下げた。


 螢子は、その様子を見守りながら考えていた。人は変わることができる。そして、変わらずにいることも、時には大きな勇気が必要なのだと。


 夜が更けていく。鷹取の部屋の明かりだけが、まだ消えずに残っていた。老作家は、死と向き合いながら、なお言葉を紡ぎ続ける。


 螢子は自室で、父の遺影に語りかけた。


「お父様、私たちは今、大きな変化の中にいます。でも、きっと乗り越えていける。なぜなら……」


 窓の外で、螢が静かに光を放っていた。儚く、そして確かな、生命の輝きを。


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