第2章:過ぎゆく季節の中で
六月の雨が、古い瓦屋根を優しく叩いていた。梅雨の訪れと共に、鷹取岳陽は湯川屋に居を移して二週間が経過していた。
螢子は毎朝、日課として鷹取の部屋を訪れる。このところ体調を崩しがちな老作家だが、今朝は珍しく縁側に腰かけていた。
「おはようございます、先生」
螢子が声をかけると、鷹取は穏やかな表情で振り返った。
「ああ、螢子さん。今朝は少し体が楽でねぇ。雨の音を聞きながら、昔のことを考えていたところだよ」
鷹取の横顔には、どこか懐かしむような色があった。
「実はね、私の処女作『季節の終わりに』は、この旅館で書き上げたんだ」
螢子は静かに鷹取の横に座った。老作家は遠い日の記憶を手繰り寄せるように、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「当時の私は二十六歳。世界中の誰からも認められず、それでも小説を書くことだけが生きる理由だった。そんな私を、君のお祖父様が温かく迎え入れてくれたんだ」
五十年以上も前の話だ。螢子の祖父の代まで遡る思い出に、彼女は息を呑んだ。
「お祖父様の代からですか……」
「ああ。あの頃の私には宿代を払う金もなかった。それでも、お祖父様は『芸術家には温泉と時間が必要だ』と言って、快く長期滞在を許してくれた」
鷹取は庭の苔を見つめながら続けた。
「人は何のために生まれ、何を残して死んでいくのか――私の小説は、いつもその問いと向き合ってきた。そして今、私自身がその答えを探す立場になった」
その言葉に、深い意味が込められていることを螢子は感じ取った。
その時、廊下を急ぐ足音が聞こえた。
「お嬢様!」
きよが息を切らせて近づいてくる。
「神代様が、お見えになっています」
螢子の心臓が、大きく跳ねた。
神代一葉――十年ぶりの再会となる幼なじみ。
かつての恋人。そして、今は……。
「私、すぐに参ります」
螢子が立ち上がると、鷹取が静かな声で告げた。
「人生とは、出会いと別れの連続なのかもしれないね」
その言葉を胸に抱きながら、螢子は玄関へと向かった。
神代一葉は、十年前と変わらない姿で佇んでいた。しかし、その目には疲れの色が濃く滲んでいる。
「ただいま、ほたる」
幼い頃から、神代だけは螢子をそう呼んでいた。懐かしい響きに、胸が締め付けられる。
「お帰りなさい、かずは」
二人は互いを見つめ、そして言葉を失った。十年の時の重みは、簡単には超えられないものなのかもしれない。
応接室に通された神代は、窓の外の雨を見つめながら、自分の境遇を語り始めた。東京の出版社で働いていた彼は、過重労働が原因で心身を病み、退職を余儀なくされたという。
「都会での夢も、結局は幻だった」
神代の声には、深い諦めが滲んでいる。
「でも、故郷に帰ってきてくれて、嬉しいわ」
螢子の言葉に、神代は苦笑いを浮かべた。
「優しいね、相変わらず。でも、こんな敗残兵みたいな僕を、温かく迎えてくれる場所なんて、もう……」
「そんなことない!」
螢子の声が、いつになく強く響いた。
「かずはは、私の大切な友達よ。それに、この湯川屋には、まだあなたの居場所があるわ」
「え……?」
「実は、フロントスタッフを探していたの。今までの経験を活かして、私たちの力になってくれない?」
神代は驚いたように螢子を見つめた。そこには、かつての少女の面影と、現在の女将としての凛とした佇まいが重なっていた。
「……考えさせてもらえるかな」
その日の夕暮れ時、螢子は一人で庭の手入れをしていた。雨は上がり、湿った空気が漂っている。
(お父様、私の判断は正しいのでしょうか……)
鷹取の最後の願い。そして神代の帰郷。それは偶然なのか、それとも必然なのか。
螢の光が、またひとつ、闇の中で瞬いた。螢子は思い出していた。幼い頃、神代と一緒に螢を追いかけたあの夏の日々を。命の儚さと、それでもなお美しく光り続けることの意味を。
翌朝、神代から電話があった。
「考えました。僕にできることがあるなら、精一杯やらせてください」
その言葉に、螢子は安堵の息を漏らした。しかし、それは新たな試練の始まりでもあった。なぜなら――。
「螢子さん」
鷹取の声が、廊下に響く。
「すまない、今日は少し、具合が悪くて……」
螢子は、駆けるように鷹取の部屋へ向かった。老作家の容態は、日に日に悪化していく。医師の予告通り、残された時間は確実に減っていくのだ。
しかし、鷹取の目は今も輝きを失っていない。
「私ね、最後の小説を書こうと思うんです」
その言葉に、螢子は息を呑んだ。
「ここで過ごした日々を、そして……命というものの本当の意味を」
雨上がりの空が、少しずつ明るさを増していく。新しい一日が、また始まろうとしていた。