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鷹取岳陽の遺稿:「最後の光」エピローグ 永遠の刹那

 窓の外で、また螢が光っている。


 意識が遠のいていく中で、私はその光を見つめている。フッサールは「現象学的還元」を説いた。全ての先入見を括弧に入れ、現象そのものに立ち返ること。今、私の意識はまさにそのような純粋な観照の状態にある。


 その光は、やがて消えゆく。しかし、その瞬間の輝きは、見る者の心に確かな印象を残していく。ベルクソンの言う「純粋持続」のように、その光の体験は意識の深層に沈殿し、永遠の記憶となる。


 私たち人間も、同じではないだろうか? 量子物理学は、観測という行為が実在を規定することを示した。同様に、人の存在も、誰かに見守られ、記憶されることで、確かな実在性を獲得する。


 生きることに、本当の意味などあるのだろうか――。


 この問いは、古代ギリシャ以来、人類が問い続けてきた永遠の謎だ。ソクラテスは「吟味されない人生は、生きるに値しない」と言った。しかし、その問いへの答えは、実は誰もが知っている。


 ただ、気づかないふりをしているだけなのだ。


 禅の公案のように、答えは問いの中にすでに含まれている。生きることは、それ自体が答えなのだから。ニーチェの言う「永劫回帰」さえも、この一回性の生の中に凝縮されている。


「先生……」


 螢子さんの声が、遠くから聞こえる。彼女の目に涙が光っているのが、かすかに見える。


 人は、誰かの心の中で永遠に生き続ける。これは、単なる比喩ではない。アインシュタインの相対性理論が示すように、時間は絶対的なものではない。むしろ、意識という光の速度で、過去と未来は永遠の現在の中に溶け込んでいく。


 老子は「道」を説いた。それは言葉では表現できない永遠の真理。しかし、その真理は私たちの日常の中に、確かな形を持って現れる。旅館の廊下を磨く音、湯気の立ち昇る朝、人々の優しい微笑み――それらの一つ一つが、永遠の現れなのだ。


 最期の力を振り絞って、私は原稿の最後の一文を書き記す。


 この真実を、私は最期の光として、あなたに届けたい。


 ペンが、静かに紙の上を滑る。その音は、まるで螢の光のように、かすかで、しかし確かな存在感を持っている。


 意識が、ゆっくりと闇に溶けていく。しかし、それは暗闇ではない。むしろ、より深い光の中への帰還のように感じられる。


 シュタイナーは、死を「より大きな生への目覚め」と表現した。今、私にもそれが分かる。私たちの個的な意識は、より大きな意識の光の中に還っていくのだ。


 最後の螢の光が、闇の中で瞬く。


 そして――。


(了)


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