鷹取岳陽の遺稿:「最後の光」第七章 最後の光
死を前にして、私は悟った。
今朝、目覚めた時から、身体の異変を感じていた。もう長くはない。しかし、不思議なことに恐れは全くない。むしろ、深い平安が全身を満たしている。
窓から差し込む朝日が、部屋の中に金色の帯を描いている。その光の中で、浮遊する塵が美しく輝いている。アインシュタインの相対性理論は、物質とエネルギーの等価性を示した。私たちの存在も、究極的には光なのかもしれない。
「先生、お具合はいかがですか?」
螢子さんの声に、私は穏やかな微笑みを返す。
「ええ、とても清々しい朝です」
人生の意味を探し求めること自体が、既に一つの答えなのだと、今ならはっきりと分かる。カミュは「シーシュポスの神話」で、無意味な営みの反復に意味を見出した。しかし、それは違う。問いながら生きること、考え続けること、それ自体に深い意味があるのだ。
ベッドの脇には、書き上げた原稿が置かれている。最後の作品『最後の光』。その中に、私の全てを込めた。
そして何より――人は決して一人では生きていないということを、私は痛切に感じている。量子物理学が示唆する「もつれ合い」のように、私たちの存在は深いレベルで結びついている。
私たちは皆、誰かの中に生き続ける。親から子へ、師から弟子へ、作家から読者へ……。魂の光は、途切れることなく受け継がれていく。それは、ユングの言う「集合的無意識」のような、深い精神的な継承なのかもしれない。
「先生、お医者様をお呼びしましょうか?」
螢子さんの声に、静かに首を振る。
「もう、その必要はありません」
仏教では「縁起」を説く。全ては互いに依存し、影響し合っている。私という存在も、無数の縁によって形作られ、そして新たな縁を生み出していく。
デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言った。しかし今、私には別の真実が見えている。「我、愛され、愛するがゆえに、我あり」。存在の本質は、むしろその関係性の中にある。
窓の外では、楓の葉が秋風に揺れている。一枚の葉が舞い落ちるのを、私は静かに見つめる。ハイデガーのいう「存在への開け」が、今、確かにそこにある。
痛みが増してきた。しかし、それも今は人生という壮大な交響曲の、一つの音符に過ぎない。シェーラーは「宇宙における人間の位置」を問うた。その答えは、案外シンプルなのかもしれない。私たちは、光を受け、光を放つ存在なのだ。
原稿の最後のページに、もう一度目を通す。そこには、半世紀以上の人生で得た全ての智慧が、凝縮されている。ヘーゲルは「ミネルヴァの梟は、黄昏に飛び立つ」と言った。真の理解は、終わりが近づいてはじめて訪れる。
「螢子さん、この原稿を、どうか……」
言葉を終える前に、彼女は深く頷いてくれた。
そうだ、もう何も恐れることはない。スピノザは「永遠の相の下に」物事を見ることを説いた。その永遠の相の中で、私たちの存在は確かな輝きを放っている。
目の前が、少しずつ霞んでいく。しかし、心の中はかつてないほど明晰だ。パスカルは「人間は考える葦である」と言った。その通りだ。しかし、人間はまた、光を放つ存在でもある。
最期の時が近づいている。それは終わりではなく、新たな光の始まりなのだ。