鷹取岳陽の遺稿:「最後の光」第六章 愛の形
人は、愛によって救われる。
この単純な真実を、私は今、身をもって切実に感じている。プラトンは『饗宴』で、愛を「美と善の探求」として描いた。しかし、実際の愛はもっと身近な場所に存在する。それは、日々の些細な心遣いの中に、確かな形を持って現れる。
今朝も、きよさんが静かに部屋の戸を開けた。
「先生、お目覚めですか?」
その声には、五十年来の従業員ならではの、温かな気遣いが滲んでいる。
「ええ、よく眠れました」
実際には、痛みで何度も目が覚めた夜だった。しかし、その苦しみを和らげてくれたのは、誰かが確実に来てくれるという安心感だった。
フロムは『愛するということ』で、愛を「与えること」と定義した。確かにその通りだ。しかし、その愛は必ずしもドラマチックなものである必要はない。日々の小さな心遣い、さりげない温もり、静かな共感……。そういった些細な愛の積み重ねが、人生を意味あるものにしていく。
庭の手入れをする老庭師の背中。廊下を磨く若い仲居の真摯な表情。キッチンから漂う、板長の作る出汁の香り。それらの一つ一つが、この旅館を支える愛の形なのだ。
レヴィナスは「他者への責任」を倫理の基礎とした。その視点から見れば、この旅館で交わされる無数の心遣いも、一つの深い倫理を形作っている。
「先生、今日もお客様がお見えになっています」
螢子さんの声に、私は姿勢を正す。来客は、三十年以上の愛読者という老紳士だった。
「先生の本に励まされ、私は何度も立ち直ることができました」
その言葉に、私は深い感動を覚えた。知らず知らずのうちに、私の言葉も誰かへの愛となっていたのだ。
仏教では「慈悲」を説く。それは、個別的な愛を超えた、普遍的な慈しみの心だ。この旅館で過ごした最期の日々、私はそのことを痛切に感じている。従業員たちの細やかな気配り、女将の真摯な対応、古くからの常連客たちの温かい言葉……。それらの一つ一つが、かけがえのない愛の形なのだ。
科学は、愛を脳内物質の作用として説明しようとする。オキシトシンやドーパミンの分泌が、愛着や幸福感を生むのだと。しかし、それは愛の一側面に過ぎない。愛の本質は、そうした物質的な次元を超えている。
キルケゴールは愛を「永遠なるもの」との関係の中で捉えた。確かに、真の愛には永遠性が宿る。しかし、それは必ずしも大きな物語である必要はない。日常の中の小さな永遠。それこそが、最も確かな愛の形なのではないだろうか。
夕暮れ時、螢子さんが新しい湯を運んでくれた。
「先生、少しぬるめにしてみましたが、いかがでしょうか」
その言葉の背後には、長年の観察と思いやりがある。
マルティン・ブーバーのいう「我―汝」の関係。
それは、このような何気ない瞬間にも存在する。
窓の外では、夕陽が山の端に沈もうとしている。その光が、部屋の中の様々な物に温かな影を落とす。茶器、花瓶、障子の枠――それらの一つ一つが、誰かの愛の痕跡を宿している。
ハイデガーは「世界内存在」を説いた。私たちは決して孤立して存在しているのではない。常に他者との関係の中で、意味を持って生きている。その関係性の核心にあるのが、愛なのだ。
痛みが増してきた。
しかし、その痛みさえも今は愛おしい。
なぜなら、それは私がまだ確かにここに存在している証だから。
そして、その存在を気遣ってくれる人々がいるという事実が、この痛みに意味を与えてくれる。
ベッドの傍らには、読者からの手紙の束がある。見知らぬ人々の、心のこもった言葉。それもまた、一つの愛の形なのだ。
夜が更けていく。今宵も、庭に螢が舞うだろう。その光は、まさに無償の愛そのものだ。誰かのために輝く。それ以上の理由も、それ以下の理由も必要としない。
私は、原稿用紙に向かう。残された時間で、この愛の真実を伝えなければならない。それが、私にできる最後の愛の形なのだから。