表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/20

鷹取岳陽の遺稿:「最後の光」第六章 愛の形

 人は、愛によって救われる。


 この単純な真実を、私は今、身をもって切実に感じている。プラトンは『饗宴』で、愛を「美と善の探求」として描いた。しかし、実際の愛はもっと身近な場所に存在する。それは、日々の些細な心遣いの中に、確かな形を持って現れる。


 今朝も、きよさんが静かに部屋の戸を開けた。


「先生、お目覚めですか?」


 その声には、五十年来の従業員ならではの、温かな気遣いが滲んでいる。


「ええ、よく眠れました」


 実際には、痛みで何度も目が覚めた夜だった。しかし、その苦しみを和らげてくれたのは、誰かが確実に来てくれるという安心感だった。


 フロムは『愛するということ』で、愛を「与えること」と定義した。確かにその通りだ。しかし、その愛は必ずしもドラマチックなものである必要はない。日々の小さな心遣い、さりげない温もり、静かな共感……。そういった些細な愛の積み重ねが、人生を意味あるものにしていく。


 庭の手入れをする老庭師の背中。廊下を磨く若い仲居の真摯な表情。キッチンから漂う、板長の作る出汁の香り。それらの一つ一つが、この旅館を支える愛の形なのだ。


 レヴィナスは「他者への責任」を倫理の基礎とした。その視点から見れば、この旅館で交わされる無数の心遣いも、一つの深い倫理を形作っている。


「先生、今日もお客様がお見えになっています」


 螢子さんの声に、私は姿勢を正す。来客は、三十年以上の愛読者という老紳士だった。


「先生の本に励まされ、私は何度も立ち直ることができました」


 その言葉に、私は深い感動を覚えた。知らず知らずのうちに、私の言葉も誰かへの愛となっていたのだ。


 仏教では「慈悲」を説く。それは、個別的な愛を超えた、普遍的な慈しみの心だ。この旅館で過ごした最期の日々、私はそのことを痛切に感じている。従業員たちの細やかな気配り、女将の真摯な対応、古くからの常連客たちの温かい言葉……。それらの一つ一つが、かけがえのない愛の形なのだ。


 科学は、愛を脳内物質の作用として説明しようとする。オキシトシンやドーパミンの分泌が、愛着や幸福感を生むのだと。しかし、それは愛の一側面に過ぎない。愛の本質は、そうした物質的な次元を超えている。


 キルケゴールは愛を「永遠なるもの」との関係の中で捉えた。確かに、真の愛には永遠性が宿る。しかし、それは必ずしも大きな物語である必要はない。日常の中の小さな永遠。それこそが、最も確かな愛の形なのではないだろうか。


 夕暮れ時、螢子さんが新しい湯を運んでくれた。


「先生、少しぬるめにしてみましたが、いかがでしょうか」


 その言葉の背後には、長年の観察と思いやりがある。

 マルティン・ブーバーのいう「我―汝」の関係。

 それは、このような何気ない瞬間にも存在する。


 窓の外では、夕陽が山の端に沈もうとしている。その光が、部屋の中の様々な物に温かな影を落とす。茶器、花瓶、障子の枠――それらの一つ一つが、誰かの愛の痕跡を宿している。


 ハイデガーは「世界内存在」を説いた。私たちは決して孤立して存在しているのではない。常に他者との関係の中で、意味を持って生きている。その関係性の核心にあるのが、愛なのだ。


 痛みが増してきた。

 しかし、その痛みさえも今は愛おしい。

 なぜなら、それは私がまだ確かにここに存在している証だから。

 そして、その存在を気遣ってくれる人々がいるという事実が、この痛みに意味を与えてくれる。


 ベッドの傍らには、読者からの手紙の束がある。見知らぬ人々の、心のこもった言葉。それもまた、一つの愛の形なのだ。


 夜が更けていく。今宵も、庭に螢が舞うだろう。その光は、まさに無償の愛そのものだ。誰かのために輝く。それ以上の理由も、それ以下の理由も必要としない。


 私は、原稿用紙に向かう。残された時間で、この愛の真実を伝えなければならない。それが、私にできる最後の愛の形なのだから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ