表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【短編小説】蛍の火の灯る宿 ―始まりと終わりの邂逅―  作者: 霧崎薫


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/20

鷹取岳陽の遺稿:「最後の光」第五章 言葉の意味

 作家として半世紀を過ごし、私は無数の言葉を紡いできた。しかし今、死を目前にして、その全ての言葉が新しい意味を持って蘇ってくる。それは、生きることの意味そのものが、より鮮明に見えてくるのと同じだ。


 書斎の本棚には、私の全著作が並んでいる。三十六冊の単行本。その一冊一冊に、私の魂の断片が封じ込められている。ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で「言語は世界の写像である」と述べた。しかし私にとって言語とは、単なる写像以上のものだ。それは、魂の痕跡である。


「先生、お客様がいらっしゃいました」


 螢子さんの声に、私は思索から現実に引き戻される。


「どなたでしょう?」


「先生の『季節の終わりに』を読んで、作家を志したという方です」


 その言葉に、私は深い感動を覚えた。ソシュールは言語を「記号体系」として分析したが、言葉は単なる記号以上の力を持っている。それは、時空を超えて、人の心に届き、その人生さえも変えてしまう。


 来客は、三十代と思われる男性だった。


「先生の本に出会わなければ、私は今頃……」


 彼は言葉を詰まらせた。デリダのいう「差延」のように、言葉の真の意味は、時間の流れの中で、予期せぬ形で現れる。半世紀前に書いた言葉が、今を生きる誰かの心を揺さぶり、その人生を変えてしまう。


 チョムスキーは言語の普遍文法を探求した。しかし、言葉の持つ力は、文法や構造だけでは説明できない。それは、人間の魂と魂を結ぶ、目に見えない糸なのだ。


 百年前に書かれた一編の詩が、今を生きる誰かの心を揺さぶることがある。千年の時を経た古典が、現代に生きる私たちに深い示唆を与えることがある。源氏物語は、千年の時を超えて、今なお読者の心を打つ。


 若き日の私は、サルトルに心酔していた。「実存は本質に先立つ」という言葉に、深い共感を覚えた。しかし今、死を前にして思う。言葉もまた、存在に先立つのではないか。言葉があるからこそ、私たちは自己の存在を認識できる。


 仏教では「不立文字」を説く。究極の真理は、言葉では表現できないという考えだ。しかし、その逆説的真理を伝えるためにも、私たちは言葉を必要とする。


 机の上には、今書きかけの原稿が置かれている。ガダマーの「地平融合」の概念のように、私の言葉は、未知の読者との出会いを待っている。その出会いの中で、新たな意味が生まれるのだ。


 痛みが増してきた。モルヒネの効果が切れる時間だ。しかし、その痛みさえも、今は大切な感覚として受け止められる。なぜなら、それを言葉にできるから。言葉は、私たちの経験に意味を与える。


「先生、お薬の時間です」


 蛍子さんの静かな声。日常の何気ない言葉の中にも、深い意味が宿る。メルロ=ポンティの現象学が説くように、言葉は身体性を持つ。それは、魂と肉体の架け橋となる。


 そう考えると、死など恐れるに足りない。私の紡いだ言葉は、この肉体が滅びた後も、誰かの心の中で生き続けるのだから。ハイデガーは「言葉は存在の家である」と言った。その通りだ。私たちの存在は、言葉という家に永遠に住まうことができる。


 窓の外では、夕暮れが近づいている。やがて闇が訪れ、また螢が光を放つだろう。その光のように、言葉もまた、闇を照らす。一時的で儚い光かもしれない。しかし、その光は確実に、誰かの心に届く。


 私は、再び原稿に向かう。残された時間の中で、まだ書かねばならない言葉がある。それは、私からあなたへの最後の手紙。永遠の今この瞬間を、言葉という光に変えて――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ