鷹取岳陽の遺稿:「最後の光」第四章 螢の教え
この旅館の庭に、時折螢が舞う。季節外れの光の舞に、私は深い感慨を覚える。生物学的には、発光バクテリアとルシフェリンの化学反応による生物発光現象に過ぎない。しかし、その儚い命でありながら、懸命に光を放つ姿に、私は人生の真実を見る。
なぜ螢は光るのか? それは、自らの存在を主張するためか? 生物学者たちは、それが種の保存のための求愛行動だと説明する。しかし、私にはそれ以上の意味が感じられてならない。
私は旅館の縁側に座って、飽くことなく蛍の光を見つめていた。
「先生、こんな夜更けまで起きてらっしゃるんですか?」
螢子さんが、お茶を持って訪ねてきた。
「ああ、あの光に魅せられてね」
私たちは、縁側に腰かけて夜の闇を見つめる。
「螢の寿命は、わずか一週間ほどだそうです」
螢子さんの言葉に、私は静かに頷く。
「その短い命の中で、これほどの光を放つ。いや、違う。短いからこそ、これほどまでに美しく輝けるのかもしれない」
ニーチェは「永劫回帰」を説いた。同じ人生を何度でも繰り返す覚悟があるか、と。しかし、一度きりであるからこそ、人生には意味がある。仏教の説く「一期一会」の思想も、その真実を突いている。
螢は、誰かに光を届けるために輝くのだ。その光は、やがて消えゆく運命にあっても、見る者の心に確かな印象を残していく。
「先生の小説も、そうですね」
螢子さんの言葉に、私は思わず目を潤ませた。
「読者の心に、光のような清らかな印象を残してくださる。それは、きっと永遠に消えることはないでしょう」
量子物理学には「光の二重性」という概念がある。光は粒子であり、同時に波動でもある。人の心に残る印象も同じではないだろうか。それは具体的な記憶という粒子であると同時に、魂を揺さぶる波動でもある。
庭の片隅で、また一つ光が瞬く。その光の軌跡は、まるでアインシュタインの相対性理論が示す時空の歪みのように、夜の闇に痕跡を残す。
人もまた、同じではないだろうか。私たちは皆、限られた時間を生きている。その命は、確実に消えゆく運命にある。しかし、その生が放つ光は、誰かの心に永遠に残り続ける。
「先生、お疲れでいらっしゃるでしょう」
螢子さんの優しい声に、私は我に返った。
「うん、少しね。でも、この光を見ていると、不思議と心が落ち着くんだよ」
ダーウィンは進化論で、生物の形質は環境への適応であると説いた。しかし、螢の光は単なる適応以上の何かを示している。それは、存在することの美しさ、生きることの尊さを物語っている。
ガストン・バシュラールは、想像力の現象学を探究した。彼によれば、詩的イメージは単なる過去の反映ではなく、新たな実在を生み出す力を持つという。螢の光も、私たちの心の中で、そのような詩的イメージとなって生き続けるのだ。
痛みが増してきた。しかし、それも今は大切な感覚として受け止められる。この命が、まだ確かに存在している証として。
「先生、そろそろお部屋に戻りましょう」
螢子さんに支えられながら、私は立ち上がる。最後に、もう一度庭を見渡す。
螢の光は、次々と消えていく。しかし、その一瞬一瞬が、確かな永遠を刻んでいる。老子の説く「無為自然」のように、存在することそのものが、既に完全な意味を持っているのだ。
部屋に戻り、私は原稿用紙を広げる。今夜見た光の情景を、言葉に定着させなければならない。それは、私なりの発光現象。この命が消えた後も、誰かの心に届く光となるはずだから。