鷹取岳陽の遺稿:「最後の光」第三章 死の予感
医師から余命を告げられた日、不思議なことに、私は深い安らぎを覚えた。
「末期の膵臓がんです。残された時間は、おそらく三ヶ月程度でしょう」
淡々と告げられる死の宣告。その瞬間、私の意識は奇妙なほど澄み切っていた。ハイデガーは『存在と時間』の中で「死への先駆」という概念を説いた。死を意識的に先取りすることによって、かえって本来的な実存が開かれるという思想だ。まさに、その通りだった。
それは、自分の人生に一つの区切りがつくという安堵なのかもしれない。あるいは、長年の問いに対する答えが、ようやく見えてきた予感なのかもしれない。エリクソンが提唱した人生の発達段階において、最後の課題は「統合 対 絶望」だという。死を受容することで、人生の全体性が見えてくる。
診察室を出た後、私は病院の中庭に立ち寄った。そこには一本の銀杏の木があり、その葉が秋の陽を浴びて黄金色に輝いていた。
「綺麗ですね」
車椅子に座った老婆が、私に微笑みかけた。
「ええ、本当に」
こんな何気ない会話さえも、今は特別な輝きを持って感じられる。死を意識することで、逆説的に、生がより鮮明に見えてくる。日々の些細な営み、人々との触れ合い、自然の移ろい……それらが、新鮮な輝きを帯びて私の目に映るようになった。
量子物理学では、観測者の存在が物質の在り方を決定づけるという不思議な現象が知られている。同じように、死という観測点を持つことで、生という現象がより鮮明に立ち現れてくる。シュレーディンガーの猫は、箱を開けるまで生死の重ね合わせの状態にあるという。私たちも、死を意識するまでは、本当の意味で生きているとは言えないのかもしれない。
病院から湯川屋に戻る道すがら、私は歩みを緩めた。道端に咲く野花、行き交う人々の表情、遠くに聳える山々――すべてが、これまでとは違って見える。
仏教では「諸行無常」を説く。全ては移ろい、変化し、消えゆく。しかし、その無常であることこそが、かえって存在の尊さを際立たせる。一期一会の思想も、まさにそこに根ざしているのだろう。
湯川屋に着くと、螢子さんが出迎えてくれた。
「お帰りなさい、先生」
その笑顔に、私は胸が熱くなるのを感じた。
「螢子さん、お願いがあるのです」
私は、この旅館で最期の時を過ごしたいという願いを告げた。螢子さんは、一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに静かに頷いてくれた。
「分かりました。精一杯のおもてなしをさせていただきます」
その言葉に、深い感謝の念を覚えた。ユングは、人生の後半は「死への準備」であると説いた。その準備には、自分を受け入れてくれる場所、人々の存在が不可欠なのだ。
部屋に戻ると、夕暮れの光が障子を透かして差し込んでいた。その光の中で、私は新たな原稿用紙を広げる。もう迷うことはない。書くべきものが、はっきりと見えている。
キルケゴールは「死の病」について語った。しかし私にとって今、死は病ではない。それは、新たな光をもたらす契機となっている。死の予感は、生の輝きをより鮮やかに照らし出す。
夜になって、ふと窓の外に目をやると、庭に螢が舞っていた。その光は、死と生の狭間で、確かな何かを指し示しているように思えた。
医師からの宣告から一週間が過ぎた。痛みは徐々に増してきているが、それも今は大切な感覚として受け止められる。生きているということの、紛れもない証として。
シモーヌ・ヴェイユは「注意力は祈りである」と言った。死を意識することで、私の注意力はこれまでにない鋭さを帯びている。それは単なる絶望ではない。むしろ、生の神秘により深く触れることのできる特権的な時間なのだ。
原稿用紙の上で、ペンが滑るような音を立てる。それは、私の最後の伝言となるだろう。しかし、それは決して悲しい調べではない。むしろ、生の讃歌となるはずだ。