鷹取岳陽の遺稿:「最後の光」第二章 時の記憶
人生とは、記憶の集積に他ならない。この真実を、私は今、痛切に感じている。
窓の外では、秋の雨が静かに降り続けている。その音を聞きながら、私は古いアルバムを開く。そこには、半世紀にわたる私の人生が、色褪せた写真として残されている。しかし、それは単なる視覚的な記録ではない。一枚一枚の写真が、まるで記憶の扉を開くような力を持っている。
アンリ・ベルクソンは『物質と記憶』の中で、純粋記憶という概念を説いた。それは、過去の体験が私たちの意識の深層に蓄積され、現在の知覚と融合しながら、私たちの存在そのものを形作っていくという考えだ。
私たちは、日々の営みの中で、無数の記憶を積み重ねていく。些細な出来事、かけがえのない瞬間、取り返しのつかない過ち、心震える感動……。それらは全て、私たちの存在の証となる。
「鷹取先生、お薬の時間です」
蛍子さんの声に、私は現在に引き戻される。しかし、その声さえも、新たな記憶として刻まれていく。
「ありがとう。ところで、外の紅葉は綺麗ですね」
「ええ、今年は特に見事です」
窓から見える楓の木は、まるで燃えるように赤く染まっている。その光景は、五十年前の秋の記憶と重なり合う。
記憶は不思議なものだ。現代の神経科学は、海馬が記憶の形成に重要な役割を果たすことを明らかにしている。しかし、記憶とは単なる脳内の電気化学的な反応なのだろうか? プルーストが『失われた時を求めて』で描いたように、一枚のマドレーヌが過去の全てを蘇らせることがある。その神秘的な力を、科学だけで説明することはできない。
この旅館の廊下を歩くとき、私は半世紀前の自分の足音を聞く。当時の主人の優しい微笑みを思い出す。そして、時を超えて生き続ける想いの力を、身をもって感じるのだ。
禅宗には「即非の論理」という考え方がある。AであってAでない、だからこそAである。記憶もまた、同じような逆説を内包しているのではないだろうか。過去は既に失われているからこそ、永遠の現在として私たちの中に生き続ける。
アルバムの最後のページには、先日撮影された一枚の写真がある。今の湯川屋の女将、螢子さんと私が写っている。その笑顔は、五十年前の主人の面影を宿している。
しかし、その記憶は私たちの中だけにあるのではない。誰かの心の中にも、確かな痕跡として残り続けるのだ。量子物理学が示唆する「もつれ合い」のように、人々の記憶は互いに結びつき、影響し合っている。
ある日の夕暮れ時、私は螢子さんと庭で言葉を交わした。
「先生の『季節の終わりに』、私、何度も読ませていただきました」
「ああ、あの拙い処女作を……」
「祖父が大切にしていた初版本です。表紙には、先生の直筆のサインが」
その言葉に、私は思わず目を潤ませた。亡き主人への感謝の想いを込めて記したサインが、半世紀の時を超えて、今を生きる人々の心に触れている。
ユングは集合的無意識という概念を提唱した。人類全体で共有される深層心理。それは、まるで大きな記憶の海のようなものだ。その海に、私たち一人一人の記憶の滴が注ぎ込まれ、永遠に溶け合っていく。
雨は、いつの間にか上がっていた。夕陽が雲間から差し込み、湿った庭石が美しく輝いている。その光景もまた、新たな記憶として刻まれていく。
アウグスティヌスは『告白』の中で、時間の本質について深い考察を残した。過去は既に無く、未来はまだ無い。存在するのは、ただ現在という一点だけだ。しかし、その現在の中に、過去と未来の全てが凝縮されている。
私は、再びペンを取る。残された時間の中で、できる限り多くの記憶を言葉にしたい。それは、未来の誰かの心に触れる光となるかもしれないから。