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鷹取岳陽の遺稿:「最後の光」第一章 存在の重み

 私が作家として最初の作品を書いたのは、この温泉町の片隅の旅館においてだった。半世紀以上の時を経た今でも、あの日々の記憶は鮮明に蘇る。二十六歳、世界から見放されたような青年が、一軒の旅館に救われた日々を、私は決して忘れることはできない。


 当時の私は、実存主義哲学に心酔していた。サルトルの「存在と無」を、擦り切れるほど読み返し、ハイデガーの「存在と時間」に没頭した。しかし、それらの哲学書は私に答えを与えてはくれなかった。むしろ、存在の不条理さと虚無を痛感させるばかりだった。


 家族との絆は既に切れ、友人たちとの関係も途絶えていた。原稿用紙だけが、私の真の友だった。しかし、書いた小説は出版社から片っ端から退けられ、返信用封筒に入れられた原稿が戻ってくるたびに、私の心は少しずつ死んでいった。


 そんな私が、この温泉町にたどり着いたのは、純粋な偶然だった。いや、今思えば、それは偶然ではなかったのかもしれない。禅宗で説く「縁起」の思想のように、全ては必然的な因果の連鎖の中にあったのだろう。


 持っていた最後の金で、私は安アパートを引き払い、夜行バスに乗った。行き先など、どうでもよかった。ただ、都会の喧騒から逃れたかった。そして、朝もやの立ち込める温泉町で、私は降り立った。


 重たいトランクを引きずりながら、私は坂道を上っていった。トランクの中身のほとんどは原稿用紙と本だった。途中で何度も休みながら、ようやくたどり着いたのが、湯川屋だった。


 玄関に立つと、古い欄間から差し込む朝日が、磨き上げられた廊下を優しく照らしていた。その光景に、私は言いようのない安堵を覚えた。


「いらっしゃいませ」


 出迎えてくれた主人は、温和な笑みを湛えた初老の男性だった。


「申し訳ありません。私は……宿泊代を、十分には……」


 私の言葉を遮るように、主人は静かに頷いた。


「もしかしてあなたは、作家を志していらっしゃる?」


 私の腕に抱えた原稿用紙の束を見て、主人は問うた。


「はい。しかし、まだ一度も……」


「芸術家には、温泉と時間が必要です」


 その言葉には、深い人生の真実が込められていた。ユングが説いた「集合的無意識」のように、この旅館には何か太古からの知恵が宿っているような気がした。


 その日から、私は湯川屋で暮らし始めた。二階の離れの一室を与えられ、食事の時間以外は、ひたすら原稿を書き続けた。温泉に浸かり、庭の自然に触れ、静寂の中で思索を重ねる。それは、まるで修行僧のような日々だった。


 時折、主人は私の部屋を訪れ、原稿を読んでくれた。


「人は、誰かに認められることで、初めて自分の存在価値を見出すことができる」


 主人のその言葉は、私の魂を深く揺さぶった。実存主義が説く「実存は本質に先立つ」という命題も、結局は他者との関係性の中でしか意味を持たない。私という存在を、無条件に受け入れてくれた者がいた――その事実が、絶望の淵にいた私を救ったのだ。


 三ヶ月後、私は処女作『季節の終わりに』を書き上げた。それは、この旅館での日々を下敷きにした物語だった。予想もしなかったことに、その作品は文壇で高い評価を受け、私は作家としての第一歩を踏み出すことができた。


 あれから五十年以上の歳月が流れた。私は数多くの作品を世に送り出し、それなりの評価も得た。しかし、あの処女作ほど、純粋な想いを込めた小説は、もう二度と書けなかったように思う。


 今、死を目前にして、私はまたこの旅館に戻ってきた。廊下を歩けば、かつての自分の足音が聞こえてくる。座敷に佇めば、主人の温かな笑顔が浮かんでくる。その記憶は、半世紀の時を超えて、今なお鮮やかに息づいている。


 まるで、仏教で説く「一即一切」のように、あの数ヶ月の体験の中に、私の人生の全てが凝縮されていたのかもしれない。


 存在の重み――それは、他者との関係性の中でこそ、真の意味を持つ。この真実を、私は今、改めて痛感している。


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