第7章:残り香
出版記念会の朝を、清々しい秋晴れが迎えた。湯川屋の庭には、一夜のうちに紅葉が深まり、白壁に鮮やかな影を落としている。
螢子は早朝から、館内を巡回していた。従業員たちは既に持ち場について、最後の準備に余念がない。きよは板長と共に、おもてなしの料理の確認を行い、若い従業員たちは受付の準備に追われている。
「お嬢様」
きよが、螢子を呼び止めた。
「これを見ていただけますか?」
案内されたのは、かつて鷹取が逗留していた部屋だった。床の間には、先生が愛用していた万年筆と、最後まで書き続けた原稿用紙が、丁寧に飾られている。その傍らには、古い螢籠が置かれ、そこから淡い光が漏れていた。
「電池式の光なんです。でも、本物の螢のように見えるでしょう?」
螢子は、思わず目頭が熱くなった。
「素晴らしいわ。きっと先生も、喜んでくださると思います」
午後二時、出版記念会が始まった。出版社の関係者、文壇の重鎮たち、そして地元のメディアが集まり、静かな旅館は一気に活気づいた。
神代は、出版社を代表して挨拶に立った。
「鷹取先生の遺作『最後の光』は、単なる小説ではありません。それは、一つの魂の記録であり、私たちへの深い問いかけでもあります」
神代の声は、確かな響きを持っていた。
「人は何のために生まれ、何を残して死ぬのか――。その問いに対する先生なりの答えが、この本には込められています」
続いて、螢子も挨拶をした。
「先生は、この湯川屋で処女作を書き上げ、そして最期の作品もここで完成させました。半世紀以上の時を超えて、先生は私たちに、かけがえのない宝物を残してくださいました」
静かな拍手が、場内に響く。
夕暮れ時、来客たちが徐々に帰り始めた頃、一人の老婦人が螢子に近づいてきた。
「私は、かつて先生の編集者を務めていた者です」
老婦人の目は、深い追憶の色を湛えていた。
「先生は、いつも言っていました。『人生の本当の意味は、誰かの心の中に生き続けること』だと」
螢子は、黙って頷いた。
「この旅館で、先生は本当の安らぎを見つけたのでしょうね。最期まで、筆を握り続けることができたのですから」
日が沈み、庭に螢籠の灯りが一層鮮やかさを増していく。
すべての来客が去った後、螢子と神代は中庭に佇んでいた。十月の夜風が、二人の間を静かに通り過ぎていく。
「これからだね」
神代が、穏やかな声で言った。
「うん、これから」
螢子は、夜空を見上げた。星々が、やさしく瞬いている。
「先生の遺作が、きっと多くの人の心に届くわ。そして、その想いは永遠に生き続けていく」
「ほたる」
神代が、螢子の手を取った。
「僕ね、もう決めたんだ。この旅館で、新しい人生を始めることを」
螢子は、微笑みながら頷いた。
「私たちの物語も、ここから始まるのね」
その時、庭の螢籠が、一斉に明滅した。まるで、鷹取が二人を祝福しているかのように。
後日、螢子は父の仏壇の前で線香を手向けながら、静かに語りかけた。
「お父様、私たち、きっとやっていけます。伝統は守りながら、新しい風も取り入れて」
振り返ると、そこには神代の姿があった。
「編集の仕事は続けながら、ここでフロント業務も担当させてもらいます。この旅館を、もっと素敵な場所にしていきましょう」
螢子は頷いた。二人の前には、まだ見ぬ未来が広がっている。それは決して平坦な道ではないだろう。でも――。
「人は、誰かのために生きることで、自分の人生の意味を見出す」
父の言葉を、今一度心に刻む。
窓の外では、紅葉が風に揺れ、その葉と葉の間から、夕陽が美しく差し込んでいた。
永遠の一瞬が、今、ここにある。
(了)