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第1章:螢の灯る宿

 古びた欄間から差し込む夕陽が、廊下の板張りを赤く染めていく。百年以上の歴史を持つ老舗の宿、湯川屋の廊下は、幾度となく踏まれた足音の記憶を封じ込めたように、今日も静かにきしんでいた。


「お父様、今日も一日が終わりますね」


 螢子けいこは仏壇の前で線香を立て直しながら、静かにつぶやいた。仏壇の上には、温和な笑みを浮かべた父の遺影が置かれている。三か月前、突然の心筋梗塞で帰らぬ人となった湯川清明の最期の表情は、まるで眠るように安らかだったという。


 そのとき螢子はまだ二十八歳。人生の岐路に立つには、あまりにも唐突な形だった。


「螢子さん、お客様がお見えになってます」


 女将室の戸を叩く音に、螢子は意識を現実へと引き戻した。声の主は、四十年以上この旅館に勤める老女中頭の岡部きよだ。


「はい、すぐに参ります」


 螢子は着物の襟を整えながら立ち上がった。鏡に映る自分の姿は、まだどこか少女めいていて頼りない。父の後を継いで女将となった自分が、この老舗旅館を担っていけるのか――その不安は、日に日に重みを増していくように思えた。


 玄関に向かう途中、螢子は館内の様子を確認していく。廊下の端々まで埃一つなく磨き上げられ、床の間には季節の花が活けられている。細部への気配りは、きよが誇りを持って守り続けてきた湯川屋の伝統だった。


 しかし、かつては賑わっていた客室の多くが今は空室となっている。バブル経済の崩壊後、この温泉街を訪れる観光客は年々減少の一途を辿っていた。加えて、従業員の高齢化も深刻な問題だった。


「お待たせいたしました」


 玄関に立っていたのは、意外な人物だった。几帳面に整えられた白髪と端正な容姿、古風な背広姿の老紳士??鷹取岳陽その人である。日本を代表する作家の一人であり、湯川屋の常連客でもあった。


「ご無沙汰しております、鷹取先生」


 螢子が深々と頭を下げると、鷹取は柔和な笑みを浮かべた。


「お嬢さん、実は最初にお願いがあってね」


 その声は、どこか力なく、憔悴し切っているように聞こえた。


「私も、もう長くない」


 鷹取の言葉に、螢子の心臓が一拍跳ねた。


「末期の膵臓がんでね。医者からは余命三ヶ月と宣告された」


 淡々と語られる残酷な現実に、螢子は言葉を失った。鷹取は、まるで他人事のように続ける。


「最期の時を、この湯川屋で過ごさせてもらえないだろうか? 私にとって、この場所こそが……」


 老作家の言葉は、夕暮れの空気の中に溶けていった。


 その日の夜、螢子は一人で内湯に浸かっていた。湯気の向こうで、ぼんやりと父の背中が見える気がする。幼い頃から、旅館の仕事の合間を縫って、父は必ずこの時間を螢子のために作ってくれた。


(お父様なら、どう判断なさったでしょうか……)


 鷹取の長期滞在を受け入れることは、介護の必要な末期がん患者を抱え込むことを意味する。現在の湯川屋の体制で、それは大きな負担となるはずだ。しかし――。


 螢子は立ち上がると、湯船から出て窓際に歩み寄った。庭園に目をやると、初夏の宵闇の中で螢が淡い光を放っている。その光は、まるで迷う者の道標のように、静かに、しかし確かな存在感を持って闇を照らしていた。


(この灯りのように……私にできることを、精一杯……)


 決意は、いつの間にか固まっていた。温泉に映る螢子の瞳は、今や迷いのない光を宿していた。


 翌朝。螢子が女将室で書類の整理をしていると、ノックの音がした。


「どうぞ」


 扉が開くと、きよが心配そうな面持ちで入ってきた。


「お嬢さま、鷹取様のことですが……本当によろしいのですか?」


 きよの声には、長年この旅館を支えてきた者としての懸念が滲んでいる。


「はい。私はもう決めました」


 螢子は穏やかに、しかし芯の通った声で答えた。


「でも、介護となると大変です。それに、もし館内で何かあったら……」


「きよさん」


 螢子は静かに言葉を継いだ。


「父が常々申していたでしょう? 湯川屋は、単なる旅館ではない。人々の人生の一部であり、その思い出を紡ぐ場所なのだと」


 きよは黙って頷いた。清明の言葉は、今でも従業員たちの心に深く刻まれている。


「鷹取先生は二十年以上、私たちの大切なお客様でした。そしてこれからもそうです。そのお方の最後の願いを、私たちが受け止めずして、誰が受け止めるのでしょう?」


 螢子の言葉に、きよの目が潤んだ。


「お嬢様は……本当にお父様に……清明様にそっくりですね」


 その言葉は、螢子の心に暖かく染み入った。


 その日の午後、螢子は館内の一室を鷹取のために準備した。庭園に面した最も眺めの良い部屋を選び、医療用ベッドを設置し、緊急時の連絡体制も整えた。


 準備を終えて廊下に立つと、夕暮れの光が再び廊下を染めていく。螢子は、その光の中に立ち尽くしていた。


(これが正しい選択だったのか、まだ分かりません)


 しかし、この決断が自分の人生の大きな転換点となることを、螢子は直感的に悟っていた。それは不安であると同時に、どこか懐かしい予感でもあった。


 夕陽は次第に沈みゆき、廊下に投げかけられた影が長く伸びていく。やがて闇が訪れ、再び螢の光が庭園を彩るだろう。人生もまた、光と影の繰り返しなのかもしれない??そんなことを考えながら、螢子は静かに歩み続けた。


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