02.全く理解ができません。
(あー、なるほど。そういう設定か)
異世界転移、異世界転生。そういう類の話の小説やアニメも数多く見かけるし、あるのも知っている。
「……あのー、ごめんなさい。間違いなのでやっぱり帰ります」
とにかくさっさと家に帰りたい。
こうなれば、間違えてお店に入ってしまったという事を素直に認めてしまったほうが早い。そんな思いからそう口にした。
「なぜ、そう思うのですか?」
普通ならばこのあたりで、ああそうですか。と引きそうなものだけど、このイケメン君はなかなか商売根性があるようで、真剣な顔で聞き返してきた。
(……そうきたか)
ならばと、こちらもその設定に乗っかって、少し困った風を装って口を開く。
「私は、一応これでも主婦ですし、夫もいます。もうすぐ高校生になる娘だっています。だから普通、そういうのには適さないと思うんです」
異世界転移とか、そういうのの対象はもう少し若い世代のはずで、夫も娘もいる普通の主婦の私では、その役にはちょっと無理がある。
「それは、誰が決めたのですか?」
「決めたと言うか、普通ありえないというか、私には分不相応と言うか……」
「普通。……あなたは、先ほどからそう言っていますが、それはあなたの世界の決まり事です。あなたの言う普通は、ここでの普通ではありません」
こちらとしては、自分が思っている正論を突きつけたつもりだったから、逆に平然とそう言い切られてしまった時には、お客様をシラケさせないような努力が垣間見え、そこまで設定が練り込んであるのかと思わず感心してしまった。
しかし、こちらの事情を説明してみても、逆に相手の話に乗っかってみても、私の要望は通じない。どうすればいいのかと悩んでいたら、男性が目の前の椅子から立ち上がり、私の後ろに回り込むと肩にそっと手を置きながら言った。
「それに、あなたで間違いありませんよ。だってほら、この首飾り――」
つぅっとネックレスのチェーンをなぞられ、ゾクリと全身が総毛立つ。
首筋に顔を寄せられ、息を吸い込む音が聞こえるほどに近い。そんなこと、最近は夫にすらされないし、普通の人なら初対面でそんなことはしない。
それが普通だと思い込んでいた私の脳は、今、何が起こっているのか理解するのには時間が必要で、体はピシリと固まったまま動けない。
「さっきから、これほどに香りたっていますのに」
言うが早いか、男性は急にわたしのTシャツの首元に手を突っ込んでグッと引っ張った。
「な、なにするんですか!」
やっとのことで出た言葉、反射的に男性の体を押しのけたけど、
「……ああ、やはりありましたか」
そう言って男性は私から素早く離れ、押しのけたはずの腕は空振りに終わった。
見ず知らずの人間に、急にそんなことされて平気なわけがない。いくらそういう設定の店だろうがやりすぎだ。そして、相手が男だろうが女だろうが、若かろうが年を取っていようが、そんなことは関係ないし、世の中にはいくらイケメンでも許されないことがあるのだ。
理解が出来ない事態に、不安になって思わずいつもの癖でペンダントの石を握りしめる。両端が違った透明な石で、どこで買ったか、誰からもらったのかも覚えてないけど、いつも困った時や悲しい時、苦しい時はそれを握ると少しだけ心が落ち着く。
そうやって透明に輝く石をぎゅっと握り込むと、少し冷静さが返ってくる。
(うん、逃げよう。今すぐに)
即座にそう思いつく。
自分自身の身の危険を感じるのだ。ヤバいやつを目の前して、躊躇っている場合ではない。
金銭は取らないといっていたけど、これ自体がそもそもなにかの詐欺の可能性だってある。ここがちゃんとしたお店だったときのことは、あとで考えるとして、とにかく、なんとかこの場から逃げなければならないと退路を探す。
こじんまりとした部屋の中央にあるテーブル。その上には並べられたお菓子と、花瓶に生けてある沢山の白い花。
テーブルと向かい合わせの椅子以外に、家具はない。
この部屋の出入り口は1つのみらしい。しかもその出入り口は男性の後ろだ。後は、左側に大く開いたカーテン。ガラス窓の先には、ベランダが見える。
(……いや。ベランダはない)
ここが何階かもわからないのに、そこに逃げ込むにはちょっと危険すぎる。
しかし他に逃げ場がないことは事実で、なんとか隙をついて一か八かでベランダまで逃げるしかない。そう思い、視線を正面の男に戻した時だった。
「私から、逃げられるとお思いですか?」
「え……」
即座に詰まった距離。
掴まれた手。
男性の動きはあまりにも素早かった。
いつのまにか、至近距離にその顔があったことに驚いた。
手首を強い力で掴まれ、その手のひらからぬるい温度を感じて気持ちが悪い。
「これまではアスティエルの意向を汲んできましたが……」
「うわ!?」
いきなり引き寄せられたかと思ったら、男性は左手でテーブルの上に乗った食材を全て払いのけた。
食器が床に落ちて割れる音がし、次の瞬間には背中にドンと衝撃が走った。
打ち付けられた背中が痛い、一瞬、息が詰まる。
そして気づけば、私はテーブルの上に仰向けで押し倒されていた。
男性の視線が、まるで値踏みでもしているかのように私の体を上から下へと滑る。
赤い瞳がすっと細まった。
「まあ、こうなれば生まれる子がモルデュインでもかまわないでしょう。なにせ、あなたをこれ以上取り逃すこと自体が、一族にとっての恥ですからね。……あなたには、予定通り我が一族の子をなしてもらいます」
「……は?」
わけのわからない単語や心当たりのないことをいわれている。理解はできなかったが、最後の言葉だけはしっかりと聞き取れた。
冗談にしてもほどがある。
「あの、もう本当に結構ですので! 非日常が十分堪能できる素晴らしいお店だと言うことも分かりましたから、本当に、もうやめてください!」
私は、いい加減にしてほしいと強い口調で抗議した。