136 趣味
「ん、起きた?おはよう」
まだ目覚めていない脳を働かせ、半分閉じられた目をこすりながら自室を出る。そこにはエプロンを畳むネルの姿があった。
「ん……おはよ」
ふらふらとネルに近寄って抱擁を交わす。あったかくていい匂いがする。
「もうご飯できるから座ってて」
しばらく抱き合った後、放されてしまいそのまま席の方へと促される。眠気に蕩けた思考はネルの言うことに素直に従う以外の選択肢を用意しない。
「んー……ありゃぁとぉ……」
言葉に欠伸がまざり発音が溶ける。テーブルにはもう朝ごはんのほとんどが並んでおり、私が座ったところで最後に香ばしい焼けた小麦の匂いのするトーストが運ばれてくる。
「いつにも増してねむそうだね」
「んー……昨日遅くなっちゃったし……」
皿を運び終えたネルが向かいの席に着く。
「ごめんね……昨日付き合わせちゃって」
「んーん。私も楽しかったから。それに途中で隣で寝ちゃってたし」
ネルは昨日夜遅くまで実験していたのだ。私は隣で楽しそうにしているネルを眺めていたので寝落ちしたのがかなり遅くなってしまったのだ。
「でも何やってるの?売り物じゃないんでしょ?」
「うん。まあお遊びだよ。楽しいけど実現するとは思ってないし……」
薬のことは素人よりは分かるがネルとは比べるまでもない。彼女が何をしているのかはちゃんとは知らないのだ。
「ふーん?でも折角だし何してるか聞かせてよ」
「聞きたい?」
ちょっとだけ目が輝いた気がした。私が薬のことを知らないのもあってネルは普段は遠慮しているのだ。熱くなっている時は多少諫めるが、こちらとしては楽しそうに語っているのを聞いているだけで楽しいし好きに語ってくれればよいのだが。
「うん」
「んー……どっから話そっかなぁ……」
思案するネルの手はフォークを握ったまま止まっている。こういう時は言っても無駄だ。
「んっとねぇ……神話とかに近いんだけどね?三大名薬っていうのがあってね」
「うん」
語りだしたのは昔話や神話に相当する何かだ。
「一個目が“神秘の霊薬”って言うんだけど、人の持ってる力を限界を超えて引き出す、みたいなのらしくて、結構最近の記録にもこれの名前が出て来るらしいんだ。千四百年前くらいだっけ?」
「最近……?」
良く分からないが、神話の類いと考えれば最近の範疇なんだろうか。聖歴の範囲内ではあるわけだし。
「まあ……比較的?かな?まあ私もどこかで読んだのそのまま言ってるだけだから書いた人がそう言ってるってだけだよ」
ネルも疑問には思っているらしい。きっとノームさんとガイアさんのところに居た頃に何かで読んだのだろう。
「二個目が“奇跡の妙薬”ってやつで、いわゆる不老長寿のお薬だね。聖歴前の何百年とかの記録に名前が出たとか出てないとかだった気がする」
「不老長寿……」
ちょっと欲しい。伝説上の存在な訳で手に入るとは思えないが神秘の霊薬と違って明確に欲しい。
「一人だけ飲んだ人がいて、その人は今も生きてるって言われてるんだ」
「二千歳とかってこと?一人で飽きないのかな」
ネルと一緒ならずっと幸せでいられるだろうが、一人でそんなに長く生きていたらおかしくなりそうだ。
「わかんない。私は耐えれないと思うけど」
「一緒なら良いんだけどね」
「うん。そうなったら一緒に生きてね」
「うん」
置いて逝ってしまうことがあるのだろうか。ネルは無理にでも付いてくるだろうか。 置いて逝かれたら私はどうするのだろうか。追いかけるのだろうか。一瞬浮かんだ想像を振り払う。
「最後が“運命の神薬”っていうんだけど、これはなんにも分かってないんだよね。神様の意志によって奇跡を起こす薬、らしいけど何言ってるか分かんないし。それにどの時代のどの資料にもこれの名前出てこないんだよね」
「……?なにそれ」
三大に数えられるようなものとは思えないほどに何も分からない。他二つは仮にも神話らしい薬らしい効果や逸話があるらしいが、最後の一つは何もない。
「私もわかんない。飲むものなのか塗るものなのか吸うものなのかも分かんないし、固体なのか液体なのか気体なのかも分かんないし、使ったら何が起こるかも分かんないし、誰か飲んだことがある人が居るのかも分かんない。それになんでこんなのが三大名薬に入ってるのかも分かんない」
要するに名前以外なにも分からないということだ。他二つは仮にも歴史上に記録のあるものだが、これは存在する可能性がゼロとかのレベルではないだろうか。
「なんもないじゃん」
「うん。なんもないの」
ネルはそう言ってニッと口角を上げる。
「だから気になるんだ」
何も分からない。だから気になる。シンプルで明快な答えだ。
「じゃあその運命の神薬っていうのを作ろうとしてるってこと?」
「そう。一応学説?みたいなものもあるにはあるから参考にしつつね。どれも根拠無いけど」
気になるものを探求する。とても分かりやすい動機だ。何も分からない以上その道のりは相当厳しい、どころか作ろうとしているものは実在するかすら怪しいものだ。でも、頑張って欲しい。
「そっか…………ねぇ」
きっと私にできることは無い。ただ、折角ネルがやりたいことをやっているなら、楽しそうにしているなら、それを隣で見ていたい。ほんの少しでもいいから力になりたい。
「私にできることあったら言ってね」
「ありがと。必要になったら頼らせてもらうね」
優しく微笑むネルはまるで太陽のようだ。暖かく優しく照らしてくれるような。
「趣味かぁ……」
でも、少し羨ましい。私はやりたいことが無い。ネルと二人で平和に生きていられればそれでいい。それだけでいい。でも、目を輝かせて楽しんでいるネルを見ると、自分にもそういう何かが欲しくなる。
「ん?何か言った?」
「へ?ん……んーん」
自分でも気づかない内に声が漏れていたらしい。何か趣味とよべるものを探してみるべきだろうか。
「あ、食べないと」
「あ、そうだ」
二人とも会話に夢中で食事の手が止まっていたのに気づく。掴んで微動だにしていなかったフォークを再度動かし始める。
「ありゃ……冷めちゃったね。焼きたてだったのに」
「ごめん……話過ぎたね……」
「んーん。全然。最近はあんまりお薬のこと話してくれないし聞けて嬉しかったよ」
齧ったパンも目玉焼きもぬるくなっていたが、不味いとは思わない。今この時間が楽しくてうれしくて幸せで、だから大丈夫なんだ。
「そう?なら良かった」
少し安堵したような笑顔でそう言ったネルは、食べ終えた食器をまとめて持って立ち上がる。
「うん。もっと聞かせてよ」
私もほぼ同じタイミングで食器を纏めて立ち上がる。愛する人が楽しそうに何かを話している。それが嬉しいということに、内容は関係ない。
「それちょうだ……」
私の方に振り返り食器を受け取ろうとしたネルの言葉が途中で止まる。その瞬間のことだった。
パリン
皿が一枚ネルの手から滑り落ちて砕ける。そして、一拍置いてネルの体が膝から崩れ落ちる。
「ぇ……ぁ……」
私の方に倒れ込んでくるネルを抱きとめる。がしゃがしゃと音を立て落ちて割れていく食器は、気にもとまらなかった。
「ぁ……?」
触れたその体は、冷え切って死の匂いがしていた。血の気は引き、およそ生気と呼べるものは欠片も残っていなかった。
「な……に……?」
頭が現実に追い付かない。意味不明な現状に思考が空回りする。
「な……んで……?」
呼吸と鼓動が乱れ、震えが止まらなくなる。指先から伝わる遺体の温度は、私を凍てつかせるような気がした。
「えっ……ぁ……ぁぁ……そっか……」
ごぷり、と嫌な音を立てて私の口から血の塊が吐き出される。そして思い出す……いや、気づいた。
「そう……だよね……」
胸を見れば、そこには剣が突き刺さり貫通していた。深々と突き刺さった剣は心臓を貫き傷の隙間から大量の血液をあふれさせる。
「幸せな……訳……」
目の前のネルは、私と鏡写しのように胸に剣が突き刺さり血を流している。正確には、私の方が鏡写しなのだろうが。
「無い……もんね……」
多分、最初から分かっていた。これは、いつかの記憶だと。私が幸せなわけがない。幸せになって良いわけがない。
「夢……だよね……」
分かっていたのに、目を逸らしていたんだ。幸せでありたい。ネルと共に居たい。そう思って、気づいていたはずの真実を心の奥底に封じ込めてみないようにしていたんだ。
「許され……ないよね……」
目を逸らすのにも限界がある。分不相応な幸せは、私を真実に引き戻してしまった。
「ああ……なん……で……」
不条理に、理不尽に、届くことのない怨嗟が零れ落ちる。
「だろう……なぁ……」
無力で矮小で貧弱な私とネルは、抗う術を持たなかった。でも、一緒に居るくらいはできたはずだ。
「痛……」
胸に突き刺さる剣。それは、ネルが死んだ理由。あふれる血の生暖かさと指先から冷えていく体が、自分の生命力が尽きていくのを伝えて来る。
「い……なぁ……」
痛みは、ただ傷が痛むだけじゃなかった。後悔と悲しみが形となって、本物の剣以上に深く鋭く私に突き刺さっている。
「こん……」
これは想像の痛みと苦しみだ。胸を貫かれたことは無く、本当のところは分からない。ただ、とても痛くて苦しくて、
「な……」
冷たくて、寂しい。他の何より、耐え難い。
「てい……ど……」
だが、これはあくまで勝手な妄想。私の作り上げた偽物の苦しみ。決して、ネルの感じた苦痛と同じものじゃない。
「じゃ……なかっ……」
理不尽で、不条理で、唐突な、死。ネルの身に降りかかったその苦しみは、私なんかに測れはしない。
「たん……だろう……なぁ……」
乱れていた鼓動がゆっくりと、されど確実に減速していく。流れ出る血も少しずつ減っていく。
「ごめ……」
心臓が、止まる。凍えるように寒くて、寂しくて、苦しい。
「ん……なさ……」
一歩先も見えない吹雪の中の雪原にたった一人で行倒れているような、そんな感覚だった。
「い……」
意識が、寒さに呑まれて消えていった。




