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丘の上食堂の看板娘

作者: 小池ともか

『丘の上食堂の看板娘』の番外編かつ『その温もりをこの身へと請い』『その愛をこの心へと願う』の後日譚です。

 登場人物の説明は省いていますので、『その温もりを』『その愛を』のどちらかは読んだけど『丘の上』を読んでいないよ〜って方は、お手数ですが小説情報のあらすじの人物説明を見ていただければと思います。

 祈の二十日の夜、丘の上食堂の店内で。

「アリーと一緒になることになった」

 その日、前触れなく訪れたダリューンの唐突な報告に、彼を迎え入れた面々は何のことかと彼を見返した。

「…えっと、ダン?」

「アリーの悪阻がひどくて…。俺に何かできることはないかと…」

 一歳になる息子、ユースを抱くナリスは話が呑み込めずに聞き返しただけなのだが、ダリューンは至極真面目な表情のままそう続ける。

「悪阻って………」

 カウンター内、テオがさらに呆然と呟いた。

 眠るリゼルを抱きながら、ククルはレムと顔を見合わせる。

 仕方なさそうなククルに、驚きながらもどこか嬉しそうなレムが頷いた。

「ダン、とりあえず、初めから話してもらっていい?」



 話を聞き進めるにつれひきつる皆の表情に気付かず淡々と己の所業を語ったダリューン。後半はもはや惚気としか取りようがなく、寡黙なこの男でもこんなに浮かれることがあるのかと皆それぞれ内心思う。

 しかし。

 呆れが勝る男性陣の表情に比べ、ククルとレムのそれは厳しかった。

「……そんな状態で楽になるわけないよ」

 もはや呆れを通り越して泣き出しそうなレム。ククルも溜息をついてダリューンを見る。

「私も悪阻は楽じゃなかったから、少しは役に立てるかもしれないけど。今アリーに必要なのはそういうことじゃないのよ」

「どういう…」

「いいから聞いて」

 ぴしゃりと言われ、ダリューンは挟みかけた口を閉じた。

 母親ふたりの説教が続く中、そろりとカウンター内へと移動したナリスと、極力音を立てないように片付けを進めるテオが、居心地悪そうに見守る。

 閉店まで懇懇と諭されたダリューンだが、言われれば言われる程その困難さに肩を落とした。

「……そのことは俺もどうにかしたいと思ってはいるのだが…」

「どうにかしたいなんて呑気なこと言ってる場合じゃないでしょ?」

 噛みつくようにレムに返されても、困り果てて見返すことしかできず。

 大きな身体で申し訳なさそうに縮こまるダリューンの姿に、彼なりに努力はしているのだということはわかるのだが。

 あとは時間が解決してくれるなどと、悠長なことを言ってはいられない。

 顔を見合わせ、頷きあうククルとレム。

「いいよ。私が行く!」

 きっぱりと、レムが告げた。



「それにしても、ダンとアリーが……」

 ユースを寝かしつけてから、冷めやらぬ興奮を宥めようとお茶を飲むナリスとレム。

「……家教えてって言われたけど。アリーはダンのこと最初から好きだったのかな」

「……やっぱりあれはそういう意味だったんだね」

 告白してきたギルド員に、ダリューンのことしか考えられないと答えたというアリヴェーラ。もう四年も前のことになるだろうか。

「そういや、アリーがダンにキスしたこともあったっけ…」

「えっ?」

 お茶を飲んでいたレムの手が止まる。

「何それ? いつ?」

「セレスティアで手合わせしたとき」

 話してなかったかな、と首を傾げるナリスに、固まっていたレムがゆっくりとカップを置いた。

「ナリス」

 冷えた声に、ナリスがぎくりと顔を上げる。

「詳しく、聞かせて?」

 にっこりと微笑むレムを見返し、ナリスはこくこくと頷いた。

 そのあと当時の状況を聞いたレムは、盛大に溜息をついてうなだれる。

「………ほんとに…何で誰も話してくれなかったの……」

 聞く限りではかなり顔見知りの多い状況だった、セレスティアでの手合わせ。

「そんな場所で。アリーが好きじゃない人にキスするわけないじゃない…」

 当時のアリヴェーラの心境を思い、レムは重ねて息をつく。

「…きっとそれで諦めることにしたんだよね…」

 アリヴェーラがこのとき知り合った警邏隊員と付き合ったことはレムも聞いていた。一年で別れた理由をアリヴェーラは疲れたからだと言ってはいたが、きっと甘えられないままだったのだろうと思う。

 そのときの話は改めてダリューンに聞くことにしたレムは、お茶を飲みきって立ち上がる。

「とにかく。明日からユースのことお願いね」

 あとはやっとくよ、とカップを引き寄せ、ナリスが頷く。

「こっちは任せて。アリーの力になってあげて」

「ありがとう、ナリス」

 微笑んで、キスをして。

 あとをナリスに頼み、レムは二階で眠るユースの下へと先に向かった。



 一方、食堂の二階でも今日の衝撃の告白について語られていた。

「……まさかダンが、なぁ……」

 眠るリゼルを眺めながら、ぼそりとテオが呟く。

「何がどうなるか。わかんないもんだな」

「そうね。…でも、よかった」

 並んで同じくリゼルを見つめるククルが瞳を細めた。

「ダン、嬉しそうだった」

 ジェットが亡くなったことに責任を感じ、一月ここへ来なかったダリューン。

 また来てくれるようになったのはアリヴェーラのおかげだったのだと、今日知った。

 テオがククルへと視線を移し、ぎゅっと抱き寄せる。

「アリーにお礼言わなきゃな」

「…ええ。手紙を書くわ。あとは何か口にできそうなものを持っていってもらうわね」

 テオの肩に頭を預け、ククルは微笑んだ。





 翌日昼前にレムとダリューンはライナスを発った。

 予定通り夕方にゴードンへと到着し、今日はここで一泊する。

「ごめんね、ダン。ゴードンに寄ってもらうことになって」

 ダリューンたちのように、一日で中央へと行くことはレムにはできない。必然的にゴードンで一泊することになる。

「いや。俺は構わないが、本当に来てもらっていいのか?」

 幼子を置いてきていることを心配するダリューンに、大丈夫だとレムは笑った。

「ライナスにはナリスもククルたちもいるもの」

 ならいいのだが、と言うダリューンに、レムが息をついた。

「そういえば。ダンに聞きたいことがあるの」

「……何だ?」

 ジト目で見上げられ、珍しく警戒を見せるダリューン。昨日散々説教されたので、仕方がないのかもしれないが。

 手合わせのときのことを聞いて、そのときの気持ちを聞いて。

「…ダンらしいけど………」

 と落胆するレム。

「…そこで反応できてたら、こんなに拗れなかったかもしれないのに…」

「………すまない…」

 もう謝るしかないダリューンは、それだけを口にした。





 ベッドの上、アリヴェーラは吐息をつく。

 ジャンヴェルドもゼクスも、未だダリューンと自分のことを認めてくれなかった。

 年齢差ももちろんあるのだろうが、自分が妊娠していることがわかってからダリューンが名乗り出るまで間が空いてしまったことがやはり大きい。

 自分が頑なにダリューンの名を告げなかったことも、彼の印象を悪くしたのかもしれない。

 今は時々来るダリューンをルミーナかロイヴェインが通してくれているが、こうしてこそこそと会わねばならないことが申し訳なかった。

 ノーザンとメイルもゼクスの説得に協力してくれてはいるが、かつての弟子が孫を孕ませ黙っていた事実にゼクスの怒りは深く、まともに話を聞いてくれない。

 妊娠期間もまだ三分の一を過ぎたところ。悪阻が軽くなる様子もなく、家にいるしかないのにここでは気が休まらない。

 皆必死に自分のことを気遣ってくれているのはわかっている。

 でもどうしようもなく苦しくて、誰かに当たり散らしそうになる自分を必死に堪える日々。

 まだこんな日が続くのかと、いつもは気丈なアリヴェーラも心身ともに参ってきていた。

 そんなとき、だった。

 慌てた様子で近付いた気配が部屋の前で止まる。

「アリー!!」

 扉を叩くのもそこそこにかけられたその声に、アリヴェーラは目頭が熱くなるのを感じた。

 返事もできないままであったが、開けるよ、の声と共に扉が開かれて。

「アリー!」

 駆け込んだレムが、アリヴェーラに飛びつく。

「辛かったね」

 かけられた一言に、アリヴェーラはただレムを抱きしめ、涙に暮れた。



 すすり泣くアリヴェーラを優しく抱きしめながら、レムはどれだけ彼女が疲弊しているのかを知った。

 今までの彼女からは想像できないこの様子に、レムはますます決意を固くする。

 しばらく、というには少々長い間レムに抱きついていたアリヴェーラは、ようやくレムを放し、まだ涙の残る瞳を細めた。

「知らなかったとはいえ、遅くなってごめんね。もっと早く来れればよかった」

 そう謝るレムに、アリヴェーラは首を振る。

「来てくれてありがとう。本当に嬉しい」

 そう答える端からまた涙を零すアリヴェーラに、本当に切羽詰まった精神状態だったのだということがありありと見て取れて。

 自分も泣きながら、レムはもう一度アリヴェーラを抱きしめた。

 涙ながらにアリヴェーラを宥めながら、本当に、とレムは内心呟く。

 どうしてこんなになるまで、と。

 ふつふつと込み上げるのは、今はまだやり場のない怒り。

 こちらの様子を見てから決めるつもりだったが、どうやら迷うこともなさそうだ。

「ねぇ、アリー」

 落ち着くのを待ってから、レムがアリヴェーラに声をかけた。

「提案があるんだけど、聞いてくれる?」



 その日は泊まっていってと請われ、そのままスタッツ家に残ったレム。

 来てくれてありがとうと礼を言うロイヴェインに、ここまで送ってきてくれたダリューン、そしてゼクスたちへの言付けを頼んだ。

「…ロイはふたりを認めてくれてるの?」

 少し気になってそう聞くと、ロイヴェインは肩をすくめてまぁねと返す。

「……俺は一番傍でアリーを見てきたから、そりゃあ思うところはあるけどさ。それでも、アリーが幸せになれるのが一番だから」

 互いに素直ではないが、ロイヴェインもアリヴェーラも双子の片割れのことを本当に大切に思っている。

 覗かせた気持ちを隠すように、ロイヴェインが笑った。

「それに。ダンくらいじゃないと、アリーの相手は務まんないよ」

 ホント大変なんだから、と茶化してはいるものの、その眼差しは優しいままで。

「やっぱりロイはアリーのことが大好きなんだね」

 こんな状況でもアリヴェーラのすぐ傍に心強い味方がいることが嬉しくなって、思わずそう口にしたレムに。

「……アリーには絶対に言わないでよね」

 硬直してからバツ悪そうに視線を逸らし、ロイヴェインが呟いた。





 翌日、レムが訪ねてきたと聞いて、ゼクス、ノーザン、メイルの三人がスタッツ家を訪れた。

 迎え入れられた客間には、レムのほかにジャンヴェルド、そしてダリューンの姿があった。

 その姿を確認するなり、ゼクスの表情が険しくなる。

「…そういうことなら、儂は帰らせてもらう」

「ゼクス」

 短くノーザンが諫める。

「レムちゃんも遠路来てくれたんだから、な」

 宥めるメイルに、ゼクスは渋々席に着いた。

「ありがとうございます。…お久し振りです」

「元気にしとったか?」

 これ以上雰囲気を悪くしないようにだろう、柔らかなメイルの声にレムは頷く。

「アリーの悪阻がひどいって聞いて。何か力になれないかと思って」

「それだけか?」

 冷えた声で呟き、ゼクスがダリューンを睨みつけた。

「大方そいつに儂らを説得するよう頼まれたんだろう」

 弟子であるダリューンをそいつ呼ばわりするゼクスに、溝の深さが窺い知れて。

「俺は…」

 口を挟みかけたダリューンを、レムが首を振って止める。

「ダンはライナスに、アリーの悪阻のことで相談に来ただけです。あとのことは私たちが聞き出しました」

 落ち着いた口調でそう言ってから、レムはゼクスとジャンヴェルドを見やる。

「アリーの悪阻がひどいことはわかってますよね?」

「…ルミーナもそうだったからな」

 ぼそりとジャンヴェルドが告げた。

「だから、そんなものなんだろう」

「今のアリーの状態が()()()()()程度なわけないじゃないですか」

 淡々とした、しかし咎めるレムの口調に、ジャンヴェルドの眼差しに怒りに近い苛立ちが混ざる。

「何を…」

「私の顔を見ただけで泣き出すくらい、アリーは追い詰められているのに。それを普通の状態だと?」

 まっすぐそれを見返して、臆することなくレムは続ける。

「…私はアリーの友人として。彼女と同じ、ひとりの母親として。このまま彼女を放っておくことはできません」

 ジャンヴェルド、ゼクスたち、そしてダリューンを一瞥ずつして。

「アリーをライナスに連れていきます。出産が済んで落ち着くまで預かりますので」

 きっぱりと、レムが言い切った。



 全員が―――ダリューンでさえも驚いてレムを見た。

「レムちゃん…?」

 名を呟くノーザンに、にこりと笑う。

「アリーには安心できる場所が必要です。今はここよりもライナスのほうがアリーの力になれる」

「しかし、レム、ここはアリーの…」

「とてもじゃないけど任せられないもの」

 戸惑うダリューンの声に被せる言葉は、レム本人も辛辣であるとはわかっていた。

 しかし、引けない。

「私はアリーもアリーの赤ちゃんも死なせたくない」

 かかっているのは、アリヴェーラとこどもの命なのだから。

 レムの口から出たあまりに重い言葉に絶句する一同。

 しばらくの沈黙の後、はっと我に返ったゼクスが息をつく。

「大袈裟な…」

「大袈裟? 今もアリーは自分の身も心も削って赤ちゃんを育ててるのに。何が大袈裟なんですか?」

 悪阻でほぼ供給の望めぬ中、その身に蓄えられていたありとあらゆるものを惜しげもなく注ぎ込んで。

 見る影もなくやつれたその姿を思い出したのか、ゼクスが再び口を閉ざした。

「妊娠したからって勝手に生まれてくるんじゃない。今、アリーが必死にがんばってるってどうしてわからないの?」

 目に見えなくても。傍からわからなくても。

 我が子がこの世に生を受ける何百日も前から、母親はそうして守り育てていることに。

 どうして気付かぬままなのか。

「お腹の赤ちゃんを育てるのはアリーにしかできないことなんだから。そのアリーを助けるのが周りの役目なのに」

 ぐるりと一同を見る。

「いつまでももめてるここじゃ、アリーは落ち着いてこどもを産むことなんてできない。だからライナスに連れていきます」



「……待ってほしい」

 重い沈黙を破ったのはダリューンだった。

「レムの言うこともわかる。…だがやはり、ここはアリーの家なんだ」

 そう告げてから、ゼクスとジャンヴェルドへと向く。

「俺が不甲斐ないばかりに、こどもができたことに気付かず彼女を苦しめたこと、本当に申し訳ありません」

 深々と、頭を下げるダリューン。

「彼女は…アリヴェーラは。悪阻で苦しい中でも自分のことより家族のことを心配していて。自分のせいで家族がバラバラになってしまったと、ずっと自分を責めています」

 ダリューンの口から改めて語られたアリヴェーラの気持ちは、おそらくゼクスもジャンヴェルドも気付いてはいたのだろう。わかっているのだという苛立ちと、それをほかでもないダリューンに言われる情けなさがその表情に垣間見える。

 頭を下げたままのダリューンにはその様子はわからないままだが、何も言わないふたりにそのまま続けた。

「アリヴェーラにとってここは大切な家族といる、大切な家で。本当なら一番安らげる場所なんです」

 アリヴェーラの懐妊を知り、ここへ来るようになって。

 彼女を労るルミーナとロイヴェインも。自分の不誠実さを怒るゼクスとジャンヴェルドも。

 どちらも等しく、彼女のことを大切に思っているのだと知った。

 そしてアリヴェーラもまた。家族を大切に思うからこそ追い詰められているのだということも。

 暫しの沈黙。何も応えないふたりに、ダリューンはゆっくり顔を上げる。

「…俺は家を飛び出して、和解しないまま両親を亡くしました。アリヴェーラにも…誰にも、同じ後悔はしてもらいたくない」

 自分にはもう取り返しがつかない。

 だからこそ、強く思う。

 アリヴェーラとこどもに命の危険が伴うのならなおのこと、彼女はここにいるべきなのだと。

 離れるべきではないのだと。

「こどもが生まれるまででもいい。アリヴェーラがここで安心して過ごせるように。ここでこどもが産めるように。今だけ俺とのことに目を瞑ってもらえませんか?」

 お願いします、と、もう一度ダリューンが頭を下げた。

 レム、そしてノーザンとメイルが見守る中。

 どこまでも真摯な弟子の姿に、それでもゼクスは何も言わずにただダリューンを見据え。

 ジャンヴェルドも強い眼差しでダリューンを見やる。

「…仮に今だけ受け入れたとして。子が生まれたあとはどうするつもりだ?」

 低く問うジャンヴェルドに、ダリューンは再び頭を上げて。

「たとえ一生かかっても、認めてもらうまで許しを請います。俺にとってのアリーはそれ程の相手です」

 迷う様子など微塵も見せずに即答した。



 ノーザンとメイルが顔を見合わせ、共に嘆息する。

「いい加減認めてやれ。ダンがどんな男なのか、お前だってよく知っているだろう」

「全部本気で言っているからな。あの朴念仁が変わるもんだ」

 じろりとふたりを睨むゼクスだが、慣れたふたりは動じない。

「ゼクス。本来ならダンのことを知るお前がジャンとの間を取り持つべきだったんだ。レムちゃんにここまで言わせたのは、間違いなくお前が悪い」

「もちろんダンにも非はあるが。お前が一番に考えなければならないのは、一体誰のことなんだ?」

 不服そうなゼクスだが、反論はしなかった。

 続けてふたりに視線を向けられたジャンヴェルドは、ダリューン、次いでレムを見てから大きく息をついた。

「……アリーは幸せ者だな」

 ぽつりと小さくそう洩らして。

「…ダン」

 突然略称で呼ばれ、ダリューンが目を瞠る。

「……娘を頼むよ」

「ジャン!!」

 ゼクスの声に、ジャンヴェルドは気が抜けたように笑って首を振った。

「これ以上意地を張っても誰も幸せになれない。……そうだろう、レムさん」

 まだ驚く最中に急に振られたレムは、向けられたジャンヴェルドの和らいだ眼差しに瞳を潤ませ頷く。

「生意気なことばかり言ってすみませんでした」

 嬉しそうに細められた瞳から零れる涙を拭いもせずに、レムは深く頭を下げた。

「ゼクス」

 あとはお前だとばかりにノーザンに小突かれ、ゼクスは仕方なさそうに嘆息した。

「ダン」

 ジャンヴェルドに認められた驚きから我に返り、ダリューンがゼクスを見る。

「はい」

「アリーを幸せにすると。ジェットに誓え」

 ゼクスの口から出た思わぬ名に、ダリューンが呆けて動きを止める。

「……ジェットに…?」

「…お前がジェットを裏切ることはないだろう」

 呆れたような、しかしかつてのどこか優しい師の声音に。

 ダリューンは拳を握りしめ、頷く。

「ジェットに誓って。アリヴェーラを幸せにします」

 まっすぐに自分を見据えての弟子の言葉に。

「…任せたぞ」

 ようやく肩の荷が下りたように、ゼクスが深く息をついた。

 場の全員を見回し、しばらく何かを堪えるように唇を引き結んでから。

 やがて本当に嬉しそうに相好を崩して。

「…ありがとうございます……!」

 再度、ダリューンが頭を下げた。



 ようやくの和解を迎え、騒がせることを承知で全員でアリヴェーラの部屋を訪れた。

 揃い踏みの面々に驚くアリヴェーラに、ダリューンが一歩近付く。

「認めてもらえた」

 ダリューンらしい短い一言に。

 息を呑み、その翡翠の瞳を見開いて。

 ぽろぽろと涙を零しながら手を伸ばしたアリヴェーラを、ダリューンが抱きしめた。

 しばらく待ってはみたものの、一行は諦めて客間に戻ることになり。

 ルミーナに話してくるとジャンヴェルドが抜け、レムはゼクスらと四人で客間で待っていた。

「……すまなかったな」

 しばらくの沈黙の後、ぼそりとゼクスが呟く。

「レムちゃんには迷惑をかけた」

「迷惑なんて」

 かぶりを振ってから、私こそ、と返すレム。

「あんなふうに言ってしまって。本当にごめんなさい」

「いや。あれで頭が冷えた」

 いつもより少し沈んだ声のゼクスが、懐かしそうに瞳を細める。

「妻を思い出したよ」

 ゼクスの妻はセレスティアでガラス職人をしていたと以前に聞いていた。

「あやつが生きていたなら。早々に儂もジャンも叱り飛ばされておっただろうからな」

 ジャンヴェルドの姉弟子なのだとゼクスは笑う。

「ゼクスは頭が上がらんかったからな」

「今も昔もな」

「余計なことは言わんでいい」

 旧知のふたりのからかいに苦笑してから、全く、とゼクスは息を吐いて。

「…本当に。あやつがおればな」

 もう一度噛みしめるように呟いた。



 一方、ジャンヴェルドはルミーナと共に寝室に戻ってきていた。

「そう」

 話を聞いたルミーナは短くそう言い、ジャンヴェルドを見る。

「気は済んだ?」

「すまなかった…」

 ばさりと切るような一言に、ジャンヴェルドは頭を下げる。

「きっと途中から、怒りにだけ目を向けて。理由を忘れていたんだろうな…」

 誰のことを思いダリューンに怒りを抱いたのか。

 考えればすぐわかることであるのに。

「…お前にも、弟子たちにも。居心地の悪い思いをさせて悪かったと思っている」

「そうね。それについてはきちんと埋め合わせをしてあげてちょうだいね」

 わかっていると頷くジャンヴェルドに、ルミーナはようやく息をついた。

「ならいいわ」

 にこりと笑い、寝室の奥、隠すように置いていた大きめの荷を解き始める。

 しまわれていく衣類に、何の為の荷かをジャンヴェルドは理解した。

「ルミーナ、お前…」

「アリーが限界になったら、ライナスに連れていくつもりだったの」

 片付けながら、淡々と話すルミーナ。

「レムさんが同じ提案をしに来てくれるとは思わなかったわ」

 呆然と自分を見るジャンヴェルドには視線をやらず、手を止めずにルミーナは続ける。

「もちろんあのふたりにはきちんと反省してもらわなければならなかったけど。ふたりともごまかすような真似はしなかったから」

「ダンにも…?」

「色々と。話させてもらったわよ」

 笑顔のルミーナから洩れる少し冷えた空気に、ジャンヴェルドは息を呑んで妻を見つめた。

 自分が怒りに呑まれている間にも、ずっと娘の為に動いていた妻。

 身体の世話だけでなく、その心をも守る為に。

 甘やかすだけでなく、これから親として立てるように。

「……悪かった」

 敵わないなと、そう認めて。

 もう一度謝罪を口にしたジャンヴェルドに、ルミーナは変わらぬ笑みを向けた。



 客間に戻ったダリューンと入れ替わりに、ゼクスたちがアリヴェーラの部屋に行った。

「…ありがとう、レム」

 座りもせずにぼそりと礼を言うダリューンに、レムは笑う。

「違うよ。ジャンさんとゼクスさんは、ダンの気持ちに応えてくれたんだよ」

 朴訥なダリューンだからこその、心からの言葉。ふたりの心を動かしたのは、間違いなくそれなのだから。

「でも。きっかけになれたならよかった」

 自分にとって大切なふたりも。そのふたりを大切にする周りも。

 これでよかったと、いつかそう思えればいい。

 ダンにも座るよう勧め、向き合って色々と話す。

「それにしても。ライナスでも思ったけど、ダンでもあんな顔するんだね」

「あんな?」

「アリーのことが大事なんだって。丸わかりの顔」

 少しだけ眉を寄せつつ考えるダリューンは、いつも通りの感情の読みにくいそれで。

「……自覚はないな」

「……そう…」

 どうやらアリヴェーラに関してだけらしい。

 そうして話す言葉の端々に先への期待と不安が見て取れて、ダリューンでもこんなふうになるのかと、その変わりように驚くレム。

(ナリスもお兄ちゃんも不安そうだったもんね…)

 その身に宿す母親とは違い、生まれてくるまでは父親としての実感を感じにくく、不安なものなのかもしれない。

 ダリューンとて例外ではないと知り、何だかおかしくなってくすりと笑う。

「大変なのはまだまだこれからだよ、ダン」

「ああ。改めて色々教わりに行くからよろしく頼む」

「任せといて!」

 これだけは先達として教えることができそうだと、レムは張り切って請け負った。



 呼びに来てくれたゼクスたちと交代で、レムもアリヴェーラの下を訪れた。

「レム」

 泣きはらした顔で、それでも微笑んでアリヴェーラが迎える。

「ありがとう」

「アリーががんばったからだよ」

 駆け寄って、抱き合い、笑い。

「…皆力になってくれるから。ちゃんと頼って」

「わかってるわ」

「ダンのこととか。私に黙ってたことたくさんあるでしょ? 赤ちゃんが生まれたら聞きに来るからね?」

「レムってば……」

 恥じらうように笑い、レムを抱く腕に力を込める。

「…本当にありがとう、レム」

「何か役に立てたならよかったよ」

「せっかく誘ってくれたのに、ライナスに行けないのは寂しいけど。ここでがんばるわね」

「何かあったらいつでも来るから」

 今までアリヴェーラがそうしてくれていたように。

「すぐに頼って」

「ええ。お願いするわね」

 少し離れて顔を見合わせ、互いに泣き笑いであることにさらに笑った。





 そして翌年、実の月。

 連絡から一月待って約束を果たしに来たレムは、まずはアリヴェーラを抱きしめて。

 まだ元通りとはいかないが、もう心配はなさそうな様子のアリヴェーラから赤子を手渡される。

 黒髪に、銀灰の瞳の男の子。

 赤子とじっと見つめ合ってから、レムはアリヴェーラを見る。

「…誰が父親か、バレバレだよね」

「ホント。許してもらえててよかったわ」

 ふたりで顔を見合わせ、笑った。

 読んでいただいてありがとうございました!

 どうしてもアリーに幸せになってほしくて。つい書いてしまいました。


 それにしても。ダンにジャン。どちらも略称呼び捨てのルミーナとゼクスたちにとってはややこしそうですね。

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冬野ほたる様 作
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