神様の意味
見上げるほど大きな木の表面に、老人の顔のような模様ができている。
その模様が動くことはないが、確かにその大木から声がする。
「今日はいつもよりお客さんが多いのう」
「その、客の、前で、ぐっすり、寝てたの、誰」
「そう怒るな愛華。ほれ、不思議そうな顔をする者に説明したれ」
びくっと肩が揺れる。見たのは愛華だけのはずなのに、大木の視線も感じて冷や汗が垂れる。
「愛華、あの、あの木喋ってるよね...!?やっぱり私の気のせいじゃないよね!?」
焦って正しい思考を組み立てられない。舌も頭もうまく回らず、ショートしてしまいそうだった。
「馬鹿っ!マルアド様に指なんて指してんじゃないわよ!失礼よ!?」
リヴィアが右人差し指の先端で怒号をあげる。
失礼とか言われても、マルアド様が誰か知らないのに最適な対応なんてできるわけない。
左の方では、光が軽く頭を下げて「こんにちは、マルアド様」と挨拶していた。それが最良なの?
「マルアドは、神。大地の、神。大木の、体を借りて、地上を、見てる」
「え、あ、すっすみませんっ!」
それを聞いて、私は慌てて片膝をついて頭を下げた。これはまずい。相手が悪い。もし残虐な方なら、私は消し炭どころか消し炭すら残らないかもしれない。
「そんな畏まらんでもよいぞ。大して強い神でもないからのう」
のんびりした口調に、私は胸を撫で下ろした。よかった、とても優しい人...優しい木だった。
とはいえ、リヴィアが言っていたように精霊の数が神様の強さと比例するならば、パッと見ただけでかなりの精霊が見えるマルアド様はきっと相当強い。決して逆鱗に触れたりなどはしていけないだろう。
え、っていうか、愛華さっき呼び捨てにしたよね?それは失礼じゃないのリヴィア!?
「愛華はマルアド様の聖域を管理してくれてた一族の一人よ。ある程度距離は近いし、マルアド様は寛容だから許してやってるの」
「ほっほっほ。今や愛華も、わしの子供みたいなものよ」
「誰が、あんたの、子供だ」
「...いや、流石にあんたはないだろ...」
小声でツッコミを入れたトールに頷いて同意した。マルアド様が優しくて本当によかった。
「光は前に来たことあるの?」
とりあえず挨拶を済ませ、精霊のせいでボサボサになった髪を整えている光に尋ねた。
「うん。魔術を習得し始めて数ヶ月経った時だから...小学5,6年生くらいかな?」
手櫛でハネまくる髪をなんとか抑えようと悪戦苦闘しながら答えた。
これだけ長いと手入れも大変そうだなと思いながら、そんな昔から練習してたのかと少し驚いた。
...髪下ろした光は初めて見たな...。
「ふむ...お主、前見た時より魔力量が増えておるのう」
「えっ、そうなんですか?」
光は知らなかったとばかりに振り返る。マルアド様に指摘されて初めて気づいたらしい。
「おお、強くなっとるよ。元からの技術のおかげか、はたまた師範のおかげか...」
マルアド様の視線が、私たちから右側へ移る。
ちなみに、視線が移るだの言っているが、それは私の単なる感覚であって、彼の顔と思われる幹の表面は一ミリも動いていない。
視線の先の愛華は、大して興味なさそうに持参した魔導書をぼーっと見ていた。
「...呼ばれてるわよ愛華」
「...知ってる、上で、無視してる」
リヴィアに言われても、顔をあげようとしなかった。しかもタチの悪い無視をしている。
「まったく、親不孝な娘じゃ...ここまで育ててやったというのに」
「捏造、すんな。育てられた、覚えはない」
大木の枝葉がゆったりと揺れる。まるでマルアド様が笑っているようだった。
なんか、彼の優しさに甘えすぎているような気がする。こんな優しい人ほど、怒ったとき恐ろしいのは鉄則のようなものだ。うっかりデリケートな所に踏み入れないようにしないと。
「生意気な子じゃのう。まあ、反抗期は誰にでもくるものじゃ。そこは目をつぶろうじゃないか」
愛華を面白そうにからかい、枝葉の揺れを収めた。
その時。
「マルアド様!マルアド様!変なのきた!」
突然、入り口の方から精霊が二人、慌てた様子で入ってきた。
「落ち着けミスル、ローク。変なのとはなんじゃ」
「人間っぽかったです!」
「いっぱい来たよ!えっと...3人くらい!」
焦りつつもしっかり報告するあたり、こういった状況にも慣れているようだ。
その人たちは、聖域があるということを知った上で来ているのだろうか。
「其奴らに魔力は?」
「えぇっと...一人だけ、ほんのちょっとあるくらい?自覚はしてなさそうです!」
なるほど、魔力に自覚がないなら、聖域のことも大して知らないだろう。
「ならば追い返せ。聖域に近づけてはならん」
「はい!行くよミスル!」
「......お言葉ですが、マルアド様」
二人の精霊が外に出ようとした瞬間、別の精霊が前に出た。リヴィアだ。
「どうした、リヴィア?」
ミスルとロークと呼ばれた精霊はその場で立ち止まり、リヴィアの方を見ていた。
「人間をやたらに追い返すのは、お止めになったらどうですか。わたしは、罪のない人の計画が破綻して、残念がるのを見たくありません」
先ほど嫌だと言っていたことを口にした。
彼女はマルアド様への態度からして、最も彼を慕っているはずだ。だけど今、反抗しようとしている。
「そりゃあ、登ってきただけの人間に罪はない。だが、これから起こそうとしている可能性も否定できんぞ」
「そうかもしれませんが、少なくとも魔力のない者がわたしたちの暮らしを邪魔するとは思えません!」
「...山を開拓しようとした者がいたじゃろう」
「...今ではそんなことを考えてる人は減ったと思います」
「ここで穴を空ければ、そう考える者はまた増える。手出しができないと信じ込ませるのが大事なんじゃ」
「でも...!見たところ、また相手は子供じゃないですか!あの人は何も悪いことはしないはずです!」
「昔、この山に入った子供が、遊びで周りの木々の枝を折って行ったが、それでも追い返したくないと言うか?」
「...っ!でも...だって...っ」
せっかく振り絞った勇気が、ほんのり灯った怒りの炎が、萎んでいくのを感じる。
マルアド様は終始穏やかな声をしていたが、その奥底の芯は硬く、威厳のようなものを感じる。たとえこれだけ近くても、彼は神様なのだ。
「...子供だろうと大人だろうと魔導師だろうと、人間は自然を『資源』だと思っておる。自由に出入りさせれば、お主らがどうなるかわからんのじゃ。お主らはわしの眷属でありわしの子供じゃ。どれだけ数がいても、一人いなくなれば心配になる。...リヴィア、お主の言い分もわからんでもない。でもこれはお主らの為じゃ。わかってくれ」
ゆったりと、でもはっきり言いきった。まるで子供を諭す親のように。
「...わかり...ました...。すみません...」
体の明かりを暗くして、リヴィアが引き下がった。
マルアド様が合図をし、二人の精霊が再び聖域の外へ出た。
「...マルアド様に反抗するなんざ、お前らしくねーな」
トール(と思われる精霊)が項垂れるリヴィアに近づいた。
今、光と愛華は幻術の手伝いとして、森に来たという3人組の元へ向かっている。
魔力も体力もない私は、この場に残される形となった。
まあ事実だけど、仲間外れにされた気がしてちょっと寂しかった。
「だって...嫌だったんだもの...。あの人たちはきっと...悪くないわ」
「なんでそう言い切れんだよ」
「......」
トールは人間に恨みのようなものを持っている。マルアド様の考えに同調するのもうなずけるが、リヴィアはどうしても無理に追い返すのを躊躇っているようだ。
「...確かに、悪い人じゃないって言い切れない。けど、悪い人だとも言えなくない?」
リヴィアを助けるつもりで、そんなことを口にした。
偏見ってのは褒められたものじゃない。私だって、偏見で傷ついたのだ。
「確かにそうだけどよ、何かあってからじゃ遅いんだ。リヴィアが入れた魔導師のせいで、ラーミナってやつが攫われたんだ」
「う〜ん...じゃあ、何かあったあとに撃退できれば...」
「優羽香とやら。案を出してもらって悪いが、精霊たちに怖い思いはさせたくない。トールの言う通り、何か起きる前に対策するのがいいんじゃ」
大木を見上げて思わず眉を下げた。何か力になりたかったが、私では力不足のようだった。自分の無能さに嫌気が差す。
「あなた、どうして精霊のことに口出しするのよ。魔導師でもないのに」
首を捻って、できるだけ最適な案を出そうと唸っていると、リヴィアがそんなことを言ってきた。
「なんで...って言われても...」
どう伝えようかと悩んだが、難しいことを考えられる頭はないので、まあ正直にそう答えると、それに呼応してリヴィアは言った。
「だって、あなたはわたしたちに関わっても、何にもいいことないじゃない。魔導師ならさらなる魔力を得られるけど、魔力もないあなたには何もできないわよ」
ふてぶてしい態度を示すリヴィアを、私とトールは見つめた。トールが何を考えてるかはわからないが、私は彼女の質問の答えを決めた。
「見返りなんて求めてないよ。ただ私が協力したいからしてるだけ」
「はっ、嘘なんてついちゃって。いいのよ?正直に言っても。こんだけ騒がしかったらマルアド様にも聞こえないわ」
「いや、正直に言ってるんだけど...」
「また嘘なんて吐いて...あ、あなたたち人間は嘘を吐く生き物でしょ?知ってるのよ...」
「だから違うって...」
「...そんなわけないわ...そんな人なんて...」
リヴィアがフラフラと地面に降りていく。
何故か急に人間を信じようとしなくなった。嘘を吐く生き物であることは否定しないけど、どうして頑なに私の言うことを否定しようとしたのか...。
「...もしかして、これ以上悩まないように、人間を嫌おうとしてる?」
なわけないよね、と冗談半分で言ってみた。
リヴィアは純粋に、私が何故協力するのかが知りたいだけだ。昔、同じ質問を誰かにして、嘘を吐かれてしまっただけだろう。
そうだとして、どうやって信じさせようか...。
「そ...そんなわけないじゃない!?変なこといわ、言わないで頂戴!ただ純粋になんでなのかを聞いただけで、そんな、お、思惑なんてないの!」
激しく明滅するリヴィアを見て、喉まで登りかけていた言葉をグッと飲み込んだ。
...うん、わかりやすいなあ。
「逆にお前は嘘吐くのヘッタクソだよな」
トールも半ば呆れて見下ろしていた。
私も苦笑いで二度頷いて同意を示した。
「むぅ...そうよ。嫌いたかったの。だってこのままじゃ...またわたしのせいで誰かが危険な目に合うわ」
「まあ、妥当な判断かもしれないけど...リヴィアはそれでいいの?」
「正直よくはないけど...」
「じゃあ嫌わなくていいじゃん。ね?」
二人はほぼ同時にはあ、とため息に似た声を出す。
「話聞いてたかお前?こいつが入れた魔導師が精霊の一人を...」
「聞いてたよ。聞いた上で、そういう提案をしてるの」
「はあ?話の根が掴めないわ。もっと詳しく言って頂戴」
「うぅん...説明は苦手なんだけど...」
意図の掴めていない二人に、なんとか納得のいく説明をしたいけれど、私のないに等しい語彙力で伝わるだろうか。
「えっとね...確かに、このまま来る人間を追い返し続けるのもいいかもしれないけど、リヴィアは人を嫌っちゃだめだと思う。昔は精霊がみんな人間が好きだったように、人間も精霊が好きだったはずだよ。たとえ、今じゃ欲に駆られた人間が多くなってしまったとしても、一部の人間はまだそうだと思う。なら、その人たちを好きになればいいよ。精霊を利用する悪い魔導師だけ嫌えばいい。森を壊そうとする非情な人だけ嫌えばいい。ただ『人間たち』って一括りにしないで、ほんの一部の害を為す人間だけを嫌って。...愛華や光まで嫌って欲しくないから」
こんな感じで伝わっただろうか。
やっぱり生きていく上で語彙力って大事なんだなと再確認する。
また「は?」って言われたら今度こそちゃんと説明できるようにしなくちゃだが...
「...そっ...か...私...まだ好きでいて...いいのか...」
どうやらリヴィアは納得してくれたみたいだった。
それどころか、体の輝きが薄くなって、声も少し震えているように聞こえた。
「そう...だよね...だってみんないい人じゃないし...みんな悪い人じゃないもん...」
「なんだリヴィア、泣いてんのか?」
「ばっ...!泣いてない!こっち来ないでよ!」
急に体を強く光らせたと思ったら森の深い方へ飛んで行ってしまった。声もわずかに上ずっているような気がする。
「あ〜...あれは伝わったってことでいいのかな...?」
「伝わった以上に感動させれたんだろ。...俺もちょっと考え方を改めてみようかな」
トールの小さな声に、私は少し驚いた。あの「人間は嫌い」の一点張りだったトールの気持ちさえ変えられたのだ。...少しくらいなら、自分のことを褒めてもいいかも。
...ところで、精霊の「泣いてる」ってどう判断するの?
◇◆◇
「ただいま〜!あ〜疲れた〜」
「...また寝てるし」
その後、あまり間を空けずに二人の精霊を連れて愛華と光が帰ってきた。
マルアド様、随分音沙汰ないなと思っていたら既に眠っていたようだ。また愛華の眉間にしわが寄ってしまった。
「まあいいじゃん。寝て頭を休めるのは大事だよ〜」
「...そういう、話じゃ、ないけど...」
手を振って体の熱を冷まそうとする光の、ちょっとズレたフォローに苦笑い。
ああ、なんか、「私の当たり前」変わったなあ。
なんてどうでもいいようなことを思って、二人に下山を促した。
太陽はもう沈み始めていた。
「あっそうだ優羽香!まだ少しここにいて!」
「えっなんで?」
「この山に来た3人組、青山たちだったから...」
「あ......」
もう少し精霊たちと遊んでから帰ろう。
◇◆◇
白い衛星の光に、世界中が寝静まる時間。
...今のは少し語弊があるな。
今の時代、「夜に寝る」という常識が通用しなくなってきている。一部の人間は一日中寝なかったり、早朝に寝たりする。
まあ結論から言えば、一日中起きててもいいことは全くないから、遅くまで起きてゲームするくらいならとっとと寝ろということだ。
そんなことを思いながら眼下の夜景をぼうっと眺め、前に向き直して坂道を登った。
こういう時、空が飛べでもしたら楽だろうなと突拍子な思考がよぎった頭を軽く叩いて、ひたすらに足を動かした。
この道は何も変わっていない。あの日、あてもなく無意識に通った時と。
通る人が多くなったのか、少し獣道として幅が広がったくらいだ。
まあ、どの「通る人」も追い返されたのだろうけど。
やがて、明るい広場に到着した。
飛び交う白い玉。見上げるほど大きな木。頭上に少ない枝葉。
どれも何も変わっていない。
「よ、久しぶりだな」
軽く手をあげてきさくに挨拶する。
「......」
反応がないということは十中八九寝ているな。
「そこのやつ。悪いがそいつを起こしてくれ」
近くにいたやつに話しかけた。木の影から恐る恐る出てきてはくれたが、訝しげな視線を送ってきた。
「な...何するつもりなの?」
「別に何もしない。話がしたいだけだ」
「ほんと?嘘ついてない?」
「ついてない。嘘をつく利がない」
両手を顔の横あたりまで上げ、敵意がないことを示したが、あまり通じていないようだ。
さてどうするか...
「たいへんたいへん!ここに来た人、幻術効かない!」
「なんか禍々しい雰囲気がする!危ねーからみんな離れて...!」
騒がしく叫んで入ってきた二人の精霊。一人はミスル、一人はトール。
二人とも幻術が得意な個体だ。そいつらで無理なら、相当強いやつなんだろうな。
「っ...!さ...先回りしてたのかよ...!?」
...まあ、その強いやつってのが私なんだがな。
「待て。危害を加えるつもりはない。私はお前らの主──────マルアドの顔馴染みだ。そいつと話がしたい」
「...お前、火薬の匂いがするぞ。それに...人間じゃないだろ...」
「ああ、よくわかったな。隠すつもりもないが」
薄ら笑ってトールに背を向ける。用があるのは精霊ではなく、大木の神【大地神マルアド】だ。
「ま...マルアド様に手出しなんてさせねーぞ!お前は明らかにおかしい!お前の嘘は信じるもんか...!」
トールは私の前に回り込み、鼻先まで近づいて叫ぶ。目の前でチカチカ光るものだから、目が潰れてしまいそうだ。
正直鬱陶しいが、無闇に手を出すとそれこそ追い出されかねない。
ふと、気がついたようにトールが止まる。その視線は敵意から驚きのものへ変わっていた。
「お、お前...優羽香か...?」
どうやら優羽香の顔を覚えていたらしい。...面倒なことになった。
「あ〜...私は優羽香ではない。姿は優羽香だが」
「ど、どういう...ってか一回会っただけで顔馴染みって図々しいにも程があるぞ!」
「あーはいはい。悪かったなー」
さっきとは違う意味で騒ぎ始めてしまった。
説明も面倒なので適当に流し、強く点滅する精霊の横をすり抜けて大木の根元まで歩いた。
「...なあ、もう起きてるだろ?あの喧しいのを止めてくれ」
大木はガサガサと葉を揺らし、少し唸った。
「...自分で撒いた種じゃろうが。人任せにするもんじゃないぞ」
「私じゃ止められる気がしない」
「...は〜...仕方ないのう。...トール。こいつの言うことは本当じゃ。わしの知り合いじゃから安心してよい」
マルアドが宥めようとしたが、主の言葉とはいえ、怪訝そうな雰囲気が消えなかった。
「いやでもマルアド様...こいつなんか人のふりしてるし...昼会った時と全然違うっていうか...」
「昼会ったのとは別の人じゃ。優羽香に似た体を使っている。警戒することはない。不必要な手出しはせん...まあ、お前さんは罪人じゃがのう」
「もう何百年も前の話じゃないか」
「罪人というレッテルはいつまでも剥がれないものじゃ」
無駄な会話を挟みつつ、とりあえず無理やり納得させ、トールとずっと後ろに隠れていたミスルを警備に戻した。
「急な訪問は前もそうだったが、精霊たちはお前さんを怖がってしまう。ちゃんと彼らに説明してくれないと、いよいよ追い出されてしまうぞ」
「別に追い出されても支障はない。また来ればいいだけだ」
「それが永遠にループしてしまうぞ?」
「説明ってのが一番面倒なんだ。言ってもわからないやつに教えようとする時間がもったいない」
「消費する時間もないだろうに」
皮肉、冗談、馬鹿話。
こんなことを言い合える人は本当に少ないから、たとえこれこそが無駄な時間だとしても、長い間こうしていたいと思えるのだ。
──────どちらも人ではないけれど。
「それはそうと、なんの用じゃ」
大木に背を預ける私に、マルアドはそう聞いてきた。
「別に。ふと思い立っただけだ」
ちらちら視界に映る精霊を、なんとなく目で追いながら答える。
本当にただの気まぐれだった。優羽香たちがここに来たことを聞いて、懐かしく思ったから来た。
「そうか...。わしはてっきり、もうここには来ないだろうと思っておったぞ」
「なんでそう思う?」
首を上に向け、表情の動かぬ顔を見上げた。
「...お前さんはここに、いい思い出など持っておらぬだろう。わざわざ辛い記憶を思い出しに来るほど、お前さんは強くないからのう」
冗談。皮肉。
そのどちらでもない。
彼はちゃんと私のことを知っているから、私に対してはっきりとそう言える。
腕を組み、足下の雑草が風でなびくのを見た。
「...何故、私のことをそこまで知っているんだ」
マルアドの話は無視し、前からの疑問だったことを聞いてみた。
「ほう。全知全能のお主ならわかりきったことじゃろう?」
「......この力を好んでないことくらい、わかってるだろ」
「そうだったかのう?」
あからさまにすっとぼけやがって。一回燃やしてやろうかと思ったが、そこまでするものではないなと思い直した。
「わしがお前さんのことを何故知っているか...簡単なことじゃ。わしがお前さんの世話を任されたからじゃ」
「...誰からだ」
「それは言えん。企業秘密というやつじゃよ」
それは本当に言えないのか、それともおちょくってるだけか。こいつの真意というものはわからない。
「お前がラーミナやリヴィアほどわかりやすいやつだったらよかったのになっ!」
自分で出せる全力の拳で大木の幹を叩いた。
手が痛くなった。こいつにとっては痛くも痒くもないのだろうけど。
「ほっほっほ。神は現代で言う『社長』みたいなもんじゃ。言葉の上での駆け引きは大事なんじゃよ」
楽しそうに笑うそいつに、今日一番大きなため息をついた。
「──────人間がこの世の支配者になって何千年。わしらがここにいる意味はなんじゃろなあ」
枝の隙間から覗く青い月を見上げ、マルアドは独り言を呟いた。
私は地面に座り、少し疲労の溜まった足を抱えた。
「意味なんてない。私たちはただ...この世界を見続ければいい。幸福も不幸も戦争も平和も結婚も葬儀も祝福も呪いも──────私たちは見ることしかできないのだから」
それは加虐でもあり自虐でもある。
私たちはただ、人間の我儘に、傲慢に、エゴに付き合わなくてはならない。この世界が滅んで、人間たちが全滅するまで。
それは残酷で、無慈悲で、最悪な時間。
損もなければ得もない。辛さがあっても骨折り損。
「こんな世界を創った人間も、神も...全てが憎い」
「これでも大地神のわしの前でそれを言うか」
会話の雰囲気を変えるためか、マルアドは不満げに言った。
「そうだな...お前には特に恨みはないが...強いて言えば、そのうるさい口が憎いな」
「ほっほ。褒め言葉として受け取っておこうかの」
神と化け物の談笑を、月と精霊は静かに見守っていた。
──────私が彼女らと別れを告げるまで、あと数ヶ月しかないとは知らず。