狂ったチューニングを合わせるために
もうすぐ事件から一年が経過する。
観葉植物に水を噴霧しながら、黎成は妹を説得する方法を考えていた。
「諦める頃合いじゃないか?」
正治はゆっくりコーヒーを嚥下する。
「医学部のくせに馬鹿なこと言ってんなよ。未来の患者がかわいそう」
「打開策がないなら、お前も同じだ。もう零和の好きにさせてやれば良いだろう」
「それ、姉さんへの贖罪にはならねえよ」
沈黙が場を支配する。
「どうしたの?」
やってきた妹の横を兄が通り過ぎる。黎成は噴霧をやめて自分の失言にため息をついた。
「……ねえ、わたし」
「兄貴から許可取れよ」
「まさ兄は、あき兄に聞い――」
「だったら無理だな」
黎成は零和が次の発言をする前に自室へと立ち去った。
緊急事態宣言が発令されて二週間。
数年前から友人らと経営している会社は軌道に乗り、それほど乱れていない部屋の掃除も済ませ、積ん読はすべて消化してしまった。満足に外出もできず、次第に時間を持て余し始めていた。
ふと、他社との共同プロジェクトについてのミーティングは今日の夕方過ぎだったことを思い出す。
ベッドに横になり、携帯の名刺を保管するアプリを開いた。特に理由はないが担当者の名刺を探していると、あるデータが目に留まった。
「中谷……」
誰だったか。
名前を読み上げて、ようやく思い出した。
あの事件の後日、若い刑事からもらったのだ。事情聴取の続きのような内容を改めて確認するために近くの警察署へ兄と妹とともに出頭して、終始、黙り込んでいた自分の代わりに兄が対応してくれたのだったか。
しかし、あの刑事が自分に名刺を渡した理由の見当がつかない。
――何か話したいことがあったら、裏の番号に電話してほしい。
姉のことがショックで思考は正常に働いていなかったが、たしかにあの刑事に名刺を差し出されたことを記憶から発掘した黎成は、該当する画像をタップした。添付データには十一桁の数列がある。
「はい、中谷です」
「……え?」
「はい? あ、あの……」
携帯が通話状態だ。
ようやく電話をかけてしまったことに気が付いた。
飛び起きて、姿勢を正しながら言葉を発する。
「えっと、その、名刺もらったので、その番号にかけてしまったんですけど。あっ、申し訳ありません。私は一年前の事件のときに」
「もしかして、黎成くん?」
「は、はい」
「わっ、久しぶりだねぇ」
刑事の穏やかな声色に安心して、尋ねてみた。
「覚えていてくださったんですか?」
「先輩の流儀を真似しているだけだよ。どうかしたの?」
「あ……」
考え無しにかけてしまい、どうすればいいのかわからなかった。思案していると
「何か話でもする?非番だからヒマしてるんだけど、どうかな」
と、提案された。
「ありがとうございます」
「事件で不自由させたことあるよね。ごめんね」
「いえ、別に。学校なら三年はほとんど登校日ありませんでしたし、あの報道は警察の皆さんに責任はありませんし」
「それでも」
「気にしないでください。しっかりスキャンダラスで、珍しい苗字で……。死んでもまだいい迷惑ですよ、あのクソ親父」
兄に続いて刑事相手の失言に、いい加減、己のブローカ中枢に嫌気がさす。自分が思うより外出自粛に疲れてしまっているらしい。
「すみません。なんでもないです」
「いや、いいよ。ところで、お兄さんや妹さんのほうは?」
「そうですね。事件の影響は少ないと思います」
「そう?」
「兄貴は相変わらずですし、妹は就学当初から母方の遠縁の苗字を名乗っているので。あ、でも、あいつ、勝手に公募で推理作家デビューですからね。ほんと、頭いかれてますよ」
「えっ!? もしかして、中学生作家の空澤れいなって……え、嘘。今、ちょうど読んでるよ」
「『蛍雪の旅路』を?」
「けーせつ? あ、ホタルユキね」
「ケイセツ、苦労して学問することですよ」
この調子でしばらく話していると、黎成の中谷に対する警戒心は欠片もなくなった。兄や妹には話せないことも、ほとんど吐き出してしまっていた。中谷が言葉をさえぎることなく、適当な相槌を打ちながら聞き役に徹していた故だ。
「ほんと、コロナ、なんで今なんですかね? 一〇月まで全力で遊びまわる計画がぶち壊されちゃいましたよ」
「大変な時期だから仕方ないけれど、せっかくの大学生初年度だもんね。ん? 一〇月に何かあるの?」
「あー。秋から妹と渡米するはずだったんです。向こうの大学に受かったので。けど、もうどうなることやらって感じですよ」
「えっ、すごいね! 妹さんも、英語できるんだ!?」
「妹のほうは、その……姉貴が、準備していたんです。間に合いませんでしたけどね」
電話先で中谷が息をのんだのが分かった。しかし、後悔が止まらなかった。あの日から考えれば考えるほど、己への鬱憤が溜まる。兄にはもちろん妹にも友人らにも吐き出せる話ではないからこそ、溜まるだけ溜まったにもかかわらず溢れさせるわけにもいかず、抱え込むしかなかった。
「兄貴との喧嘩は止まりませんし、妹は事件のことを知りたがって聞いてくるし……なんか、もう、重なるときって重なるものですね」
「お姉さんと話は」
「無理ですよ。姉貴、この一年で俺とも兄貴とも一度も面会してくれませんでしたからね。向きあおうとすらしてくれない。まあ、当たり前ですよね。姉貴が追い詰められていたこと、俺は全く知りませんでした。文字通り、勉強しかしてこなかったせいなのはわかってます。ですけど……」
頑是ない子どもではないが、一八歳。もう限界だった。
すると、中谷はしばらく沈黙した後に
「確かに、今はまだだめかもしれない」
と、確かに言った。
「お姉さんは、今、準備しているんだよ。楽観的かもしれないけれど、焦らないで向きあえるときに向きあえばいいんじゃないかな。君も、それまでしっかり準備をすれば前を向ける気がする。ほら、後悔をくりかえすな。って、よく言うでしょう?」
「……そうですね」
深く息を吸って、吐き切った。
「今度こそ、変わりたい」
姉が流していた涙の本当の意味にも考えが至らなかった自分から、変わりたかった。
決断するように宣言した。
「頭悪いからありきたりなことしか言えないんだけど……応援するよ。君なら、きっと変われる」
本当にこの人はほしい言葉をくれる。黎成は珍しく素直に称賛する。
「話すの、上手いですね」
「そう? もともとそういう部署にいたからかな」
「そうだったんですか、さすがです。あ、愚痴ばかり、すみませんでした」
「いや、僕もいい気分転換になったよ。ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました。それでは、このあたりで失礼します」
「うん、そうだね。電話、嬉しかったよ。またね」
通話が終了する。
少しの寂寥感と軽くなった心、決意の言葉が残った。
ベッドの上で胡坐をかいてぼんやりしていると、控えめなノックの音が聞こえてきた。
「何?」
ぶっきらぼうに答えると、扉の陰から零和が顔を出す。
「わたしも同じだよ。変わりたい」
どうやら、最後のほうを聞いていたらしい。
まだあどけなさがあるが真剣な面持ちをしている妹に黎成はベッドの上から椅子へ場所を移した。何も言わずに彼女の双眸を見つめ、言葉を待った。
「わたしだって、ちゃんとお姉ちゃんと向きあいたい。だから、わたしだけ何も知らないのは嫌なの。本当のことを知りたい」
「今である必要はないだろ」
「じゃあ、いつになるの?」
「とにかく、お前はまだ知らなくていいことだから」
一年前からずっと続く生産性のない会話。言葉に不機嫌がまとわりついてくる。扉を閉めようと立ち上がり、零和を廊下に追いやろうとした。すると、零和は抵抗しながら吠えた。
「それを決めるのは、わたしだよ。あき兄じゃない!」
妹がめったに見せない激情に一瞬怯む。閉めようと押さえていた扉がさらに開く。
「悪いのはわたしだもん。わたしが、お姉ちゃんに……わたしが起きてたら、あの日、お姉ちゃんを止められたから」
妹の言葉の意味を掴み損ね、逡巡し、ある可能性が思いついた。
「それって」
「あき兄が納得できないのは、推理小説だからでしょう?」
しかし、零和は遮って話題を変えた。黎成は黙って続きを促す。
「ペンネームを借りたのは、話題集めのため。出版界は年々縮小してるから、少しでも良いスタートダッシュを切りたかったの。
……わたしは文壇に残る。何年も、何十年だって、絶対に。あの人のせいでお姉ちゃんが嫌いになったものを、もう一度、好きになってもらう。そのきっかけになりたい。
お兄ちゃんたちみたいに頭良いわけじゃないからできることが少ないの。でも、できることをやりたい。今回はわたしの数少ないチャンスの一つだから、無駄にしたくない。無駄になんかできない!」
沈黙が訪れる。
つぶやくように黎成は尋ねる。
「だから、事前の許可より事後の許しってことか?」
「ごめんなさい。だけど、先に言ってたら理由も聞かずに止めたでしょう?」
「だろうな」
「でも、推理小説じゃないといけないの。同じじゃないと意味がないから」
「だろうな」
黎成は相槌を打ちながら机の引き出しから黒のボールペンを探し始めた。
「で、これで俺がダメって言ったらどうすんの?」
ようやく見つけたボールペンが使えるか適当なノートに試し書きしている彼だが、妹が俯いて黙り込んでしまっていることはわかった。
しかし、今は、兄貴との喧嘩を止めてくれる人がいなければ妹への意地悪を諫めてくれる人もいない。
加えて、姉のように俯く妹に対し、彼女のやりたいことを否定できる言葉は浮かびやしない。
「契約書とか法定代理人同意書とかは?」
振り向いてみれば、今にも泣きだしてしまいそうだった顔が見える。
「兄貴に判もらう前に内容確認して、不利になる内容は先に訂正する」
「……できるの?」
「CEOなめんな。ほら、持って来い」
零和は途端に表情を明るくし、急いで自分の部屋へ戻っていった。
「ほんと、ずりいな」
ミーティングまであと二時間。
頭を冷やして自分を納得させ、妹が持ってくるだろう書類を確認するには十分な時間だった。