第3話
斜陽の王国に祭上げられた『英雄』の少女。
剣と銃と魔物と陰謀のダークファンタジー!
第一章・「嘘の手紙」――少女と魔物に犯された青年の優しい嘘――
路地裏の闇の中で蠢く姿があった。それは蠢動すると言うよりは悶き苦しんでいるようだった。ユリアンである。
「くそぉ……どうなっているんだ……おさまれ! おさまってくれ! 僕は……僕は力が欲しいと言った。マリアを守る、マリアと暮らして行くだけの力でよかったんだ……人殺しなんてしたくない。もう嫌なんだ……」
彼は黒い鱗に包まれた右腕を抱えながら呻いていた。その禍々しい腕は師を殺したときより大きく、鱗の部分は肩にまで達しようとしていた。
「魔物に魂を売ったな?」
物陰から青年が現れた。ユリアンははっとなって振り返る。フェデルタだった。フェデルタは彼を追ったわけではない。偶然に見つけてしまっただけだった。
「だれだ!」
「魔物を退治を専門にするものさ」
ユリアンの顔が強張る。殺されると思ったからだ。
「頼む、助けてくれ。こんなつもりじゃなかったんだ。才能のない貧乏な大工見習いの生活は嫌だった。毎日親方に怒られて、いつまでも下働きでいるのは嫌だったんだ。半人前の僕ではあの子に、マリアに振り向いてもらうことはできない。他の奴から少しだけでいい、尊敬されるような、そんな力が欲しかっただけなんだ」
その欲望に、魔物は隙を見つけたのだ。だが、そんなささやかな欲望などどんな人間でも多少なりとも持っているだろう。魔物がユリアンに取り付いたのはそれは不幸な偶然でしかない。
「俺はお前を助ける方法を知らない。安易に力を手に入れようとした、お前が悪い」
フェデルタの言葉は厳しい。不器用な彼は、言葉に装飾を与えるのが下手だ。彼の言葉は率直で、残酷に正直である。
ユリアンはへたり込むように絶望のまなざしで腕を見た。
「僕は、魔物になっちまうのか」
「その状況では、人間でいられるのも長くはないな。俺が救えるのはお前の魂だけだ。人のうちに死ぬか、魔物に落ちて狩られるまで生き延びるか、だ」
「ああ、マリア。浅はかな僕を許してくれ」
ユリアンは情けない顔で項垂れた。フェデルタは冷徹な瞳で彼を見下ろしていたが、背を向けて歩き始めた。
「明日まで時間をやる。それまでに決断するんだな」
フェデルタは感情を殺した声でつぶやくと、闇の中に姿を消した。
次の夜、ユリアンもマリアも酒場には現れなかった。レルシェルは北壁騎士団に調査させ、マリアの居所をつかんだ。彼女はこれといった怪しい行動はなく、日が落ちてから町外れの教会に向かった。
監視役の部下を帰すと、彼女はフェデルタと合流し、マリアを追跡した。
「お前のことだから一人で行くと思ったがな」
フェデルタがからかい半分に言うと、レルシェルは不機嫌そうな顔で答えた。
「一対一の勝負は騎士として名誉だが、市民の生活を守ることに比べれば、私の名誉などとるに足らない価値だ。ここは事件の解決を優先する。それが北壁騎士団長として、聖杯の騎士としての判断だ」
「それは結構なことだ。ずいぶんと分かってきたな」
フェデルタの言葉にレルシェルは反論を言いたかったが口を閉ざした。目的の廃教会にマリアがついて立ち止まったからだ。だが、彼女は入り口からずいぶんと遠い位置で止まった。
「あいつ、俺たちに気づいているんじゃないか?」
「まさか……」
レルシェル達は隠密行動の専門家ではないが、一般の市民に見破られるような行動はしていない。だが、マリアは振り返ると、迷うことなく二人が隠れる箇所をじっと見つめた。
「ただの花売りではない、ということか」
「曲者だな。では隠れている意味はない。行こう」
レルシェルはすばやく決断すると、彼女に向かって堂々と歩き始めた。その決断の速さと潔さにフェデルタは呆れと感心を抱いた。
マリアもフェデルタと同じ感想を抱いたのか、驚いた顔でレルシェルを見た。
「ユリアンを逃がすつもりか」
単刀直入である。
マリアは大きな瞳をさらに見開いてレルシェルを見た。純粋であまりに愚直だ。呆れたように彼女は笑った。
「いいえ」
彼女は首を横に振った。レルシェルは意外だと思った。マリアはどれだけのことを知っているんだろう? レルシェルは疑問に思ったが、それを問うだけの時間はなかった。
「マリア……きてくれたんだね」
少し苦しげな声がした。それはユリアンのものだった。レルシェルとマリアは弾かれたように声のしたほうを向いた。
木の陰から、彼の姿が現れる。月光に照らされたそれはおぞましいものだった。
彼の右半身は魔物に犯されていた。腕は元より、右目の辺りまで黒い鱗が多い、黄色く変色した眼球は飛び出さんばかりに開かれていた。口には牙、頭には角。人と呼ぶにはあまりに遠すぎた。
「ユリアン……」
マリアは愕然としながらも、目を逸らさなかった。ユリアンを見つめて微動だにしない。美しい眉が歪み、彼女の悲しみを表現した。
「ああ、マリア……僕をそんな目で見ないでくれ」
ユリアンは魔物化していない、左半身で泣いた。左目からはとめどなく涙が溢れる。
「何を泣く。お前の欲しかったものが、そこにあるのだぞ」
突如、闇から声が響いた。
「ちっ……やはり奴が手を引いていたか」
フェデルタは腰の銃を抜き発砲した。闇から浮かび上がるそれは、レルシェルとフェデルタが街で遭遇した魔物である。力ある魔物は、人間の欲望に取り付いて、仲間を増やすと言う。
魔物の出現にユリアンは叫び声をあげて苦しみ始めた。魔物がユリアンの魔物化に関わっているのは明らかだった。
「ユリアン!」
「だめだ! ユリアンはもう!」
マリアが悲鳴のように彼の名を叫んだが、レルシェルは少女の身体を押しとどめた。そして彼女を背に預け、剣を抜く。
ユリアンは言葉にならない奇声を上げて襲い掛かる。レルシェルはマリアをかばうようにそれを剣で受け流した。かつてない衝撃にレルシェルの腕はしびれ、彼女は戦慄した。
「フェデルタ! 作戦は変更だ。お前はその魔物を頼む」
不利だと知ってなお彼女は弱音を吐かなかった。魔物と五分に戦える人間はそう多くない。フェデルタも一対一で必ず勝てるとは思っていない。二人は魔物の策に落ちたのだ。 フェデルタはレルシェルに背を向け、魔物に向き直った。レルシェルの声には信頼に足る気概があったからだ。その気力があれば簡単に敗れはしない。彼はそう思い自分の戦いに集中した。
フェデルタは銃を捨て、短剣を抜いた。すでに銃の間合いではなかったし、彼は剣技にも自信を持っていた。
「なぜユリアンを選んだ?」
フェデルタは魔物と剣を交えながら問いかけた。その問いは同情からではない。ユリアンのような善良な、普通の庶民がなぜ魔物かするのか、彼はそれが知りたかった。
「さしたる理由はない。この町の人間は誰でも魔物になる素質を持っている」
魔物は闇の中でにやりと笑って答えた。
「なるほど、な。では彼は哀れな実験台と言うところか」
「実験台? 何故そう思う」
「人が魔物になる術が、完全なものであれば、王都はすでに魔物だらけになっているだろうよ?」
フェデルタの答えに魔物は満足気な笑みを浮かべ、驚異的な膂力を持ってフェデルタを吹き飛ばした。フェデルタもその呼吸を知り、自ら飛んで体制を保つ。だが、彼我の力の差は大きく、彼は小さく舌打ちした。
「なかなか頭の切れるやつだ。我らとしてもそういうやつが居てもらわないと、張り合いがない」
フェデルタは油断なく構えた。フェデルタには状況を打開する手がなかったが、魔物にはまだ余力がありそうだった。均衡を保つ程度に戦いを続けることは可能だったが、彼はレルシェルの動向が気にかかった。彼女とユリアンの戦いの結果で、こちらの戦いの帰趨に繋がるからだ。
レルシェルは不利な戦いを強いられた。背中のマリアをかばっての戦いだったからだ。よく集中し、ユリアンの暴力的な攻撃をかわして行くが、マリアをかばう際にバランスを崩し軽量の彼女は吹き飛ばされる。
「しまったっ」
レルシェルは慌てて起き上がるが、ユリアンはマリアに手を伸ばせば届く距離にあり、それは絶望的な間合いだった。
ユリアンは雄たけびを上げて少女に襲い掛かる。
「ユリアン……」
マリアは悲しげな瞳を揺らした。そして懐から、大量の封筒を取り出した。
ユリアンは驚いてそれを見た。それは彼女の兄に成り代わったユリアンが出した手紙の数々である。
「ユリアン、あなたはとても優しい人よ。何故、あなたは欲したの? 何を求めたの? 求めなければ、あなたは優しくていい人でいられたのに。あなたが書いてくれた手紙は、とても優しかった」
ユリアンは咆哮を止め、マリアを見つめた。魔物の衝動より、ユリアンの意識が勝っていたのだろう。
「君は、知っていたのか」
ユリアンがマリアに依頼されて彼女の兄へ手紙を送ったとき、その返事は軍隊からの戦死の知らせだった。ユリアンはそれをマリアに隠した。彼女の悲しむ姿を見たくはない。愚かな優しさだった。
マリアは唇を動かした。その音はユリアンにもレルシェルにも届かなかった。マリアすら聞き取れていないだろう。人の言葉ではないのだ。
その刹那、彼女が手にした手紙が一斉に無数の刃になる。それは無慈悲にユリアンの身体を貫いた。
「マリ……ア……」
ユリアンの口から断末魔と共に大量の血液がこぼれた。
マリアの頬に一筋の涙が伝う。
「魔術師……いや、錬金術師か」
レルシェルが呆然とした声でつぶやいた。マリアはただの花売りの少女ではなかった。魔物に精通したその道のものだ。偽りの姿で魔物に取り付かれたユリアンに接近し、彼を調査していたのだ。彼女もレルシェルらと同じ聖杯の騎士の一人だった。無論、ユリアンはおろかレルシェル達ですらその真実を知らなかった。
「うそをついてごめんなさい。でも兄が戦場に行き、帰らぬ人になったのは本当のこと。その兄への手紙を書いて、その返事が返ってきたとき、その内容はまるで本当の兄さんからの手紙のようだったわ。あなたに魔物が憑いていることを知っていたけど、また手紙をあなたにお願いしたら、また兄さんからの手紙が来る……そう思ったら、あなたを殺せなくなった。あなたが本当に優しい人だと知ったから、私はあなたに恋をしてしまった」
マリアは懺悔のような声で言った。ユリアンは痛みを忘れて、その半分を醜い魔物の姿に替えた顔で見つめた。その表情は驚きで満ちていた。
「あなたを救う方法はないかと色々な調剤を試みたけど無駄だった。あなたを苦しませてしまった。本当にごめんなさい」
マリアは語尾を強く言うと、刃にした手紙を自らの細い喉元につきたてようとした。
だが、それは動かなかった。
ユリアンの左腕がそれをつかみ、放さなかった。
紅い、人間の血が流れて行く。マリアは涙が溢れる顔でユリアンを見た。
「ダメだ……僕は君を笑顔にするために、うその手紙を書いたんだ。君の笑顔が見たくてね。泣き顔なんて見たくない。君が血まみれになる姿なんて見たくない。僕は結局、君に嘘の手紙しかかけなかったけど、本当は自分の気持ちを、本当の気持ちを伝えたかったんだ。僕はその手紙をもう書けそうにないけれど……」
ユリアンは悲しそうに笑った。そして、少しの時間を置いて、彼の体が風に流されるように灰になって崩れて行く。マリアは驚きの表情のまま、とめどなく涙を流した。その涙は月光を浴びて、白銀の光を放った。それはとても悲しい光だった。マリアはユリアンがいなくなった虚空を見つめて、動くことができなかった。
「マリア・ベネット。大錬金術師アラン・ベネットの娘とはね。一杯食わされた感じだな」
フェデルタは北門の城壁から街道を見つめ、つぶやいた。傍らにはレルシェルがいて、不機嫌そうな顔で座り込んでいる。
「手柄を横取りされて不満か?」
「そうではない。手柄なんてどうでもいいが、お前はあの魔物を取り逃がすし、ユリアンの件は後味の悪いものになったし、第一仲間であるマリアのことを何故私達に知らせていないんだ」
レルシェルは納得のいかない表情で頬を膨らませて不満そうだった。
「さぁな、敵をだますにはまず味方から、ってやつか?」
フェデルタは自分はどうでもいい、と言ったような興味のない声で言った。
と、二人の視界に城壁を登ってくる人影が入った。その人物に二人は軽い驚きの表情を作る。二人の話題の素、マリア・ベネットだったからである。
今日の彼女は花売りの安手のドレスではなく、貴族の娘が付けるようなドレスを着込んでいた。それが本来の彼女の姿なのであろう。
呆気に取られる二人を尻目に、マリアは端正な顔に小さな笑みを浮かべて会釈した。
「こんにちわ、レルシェルさん、フェデルタさん。先日は、ありがとうございました。いえ、ご迷惑をおかけしました、と言うべきかも知れません」
マリアはゆっくりとした動作で頭を下げた。レルシェルとフェデルタは互いの顔を見合わせた。
「迷惑とか、そういうことではないんだけど……」
レルシェルがしどろもどろに答える。マリアが正体を隠していたことには不満を感じていたが、こうも下手に出られると困惑してしまう。もっともそれがマリアの狙いでもあった。
「ユリアンの件は偶然でした。魔物に憑かれた気配を感じて、彼の身の回りを調べ始めたのです。私も聖杯の騎士の一人、その思いはお二人ならわかっていただけると思います」
マリアは表情を引き締めて事情を話し始めた。
聖杯の騎士は王に密命を受けた、魔物に対抗する者達である。それは組織と言うよりは称号に近いもので、レルシェルらも聖杯の騎士が他に何人いるかを知らない。行動は殆ど個人によるものだからだ。マリアがユリアンに目をつけ、独自に調査を進めたことを二人に責める権利はなかった。
「あなたがアラン・ベネットの娘で、聖杯の騎士だとは俺たちも驚いたよ。しかし、アラン・ベネットには男子の子息はいなかったはずだが、ユリアンをだましたのか?」
フェデルタの質問にマリアは微笑みながら首を振った。
「あの人は遊び人でして。正式な妻の子供は私一人ですが、腹違いの兄弟は各地に何人もいるそうですよ」
「では……」
レルシェルが神妙な顔で尋ねた。
「兄が戦場に行き、死んだのは事実です。私にとってあの人は『近い』兄でしたから、本当の兄として接していましたし……」
マリアは表情を曇らせた。大きな瞳が揺れる。
「ユリアンが兄に成り代わり、手紙を書いてくれたことは本当に嬉しかった。出来れば彼を助けたかった。彼の優しさに惹かれていたから……彼のような優しい、純粋な青年ですら、心の闇を魔物に見出されてしまう……魔物とは一体何をしようとしているのですか」
マリアは二人に問うわけでもなく、澄み渡った空に問いかけた。二人はもちろん答えを出せず、無言で彼女を見詰めた。
しばらくマリアは空を見上げた。兄を思うのか、ユリアンを思うのかはわからない。ひとつ緩やかな風が彼女の髪を撫でた。
「今日はこれで失礼します。またお会いすることもあるでしょう。では、ごきげんよう」
マリアは静かにそういうと会釈をしてきびすを返した。来た道を去っていく後姿をレルシェルとフェデルタは見送った。
姿が見えなくなると、レルシェルは小さくため息をついた。
「まだ納得がいかないのか? それとも彼女に同情でもしたか?」
「いや、そういうわけではない」
レルシェルは憮然とした顔で言った。
「お前があの魔物と話したように、ユリアンはごく普通の市民だった。貧しかっただろうが、決して悪人ではないし、どこにでもいる青年だった……」
レルシェルは思う。それならば誰であったとしても魔物になりうるし、ユリアンとマリアの悲劇も誰にでも起きうることなのか。強いて言えば、自分自身やフェデルタにも起こりうる。少なくともレルシェルは嫉妬や怒りなどと無縁ではない。
レルシェルは難しい顔で城壁を降りるために歩きはじめた。
「そうだ」
フェデルタが何か思い出したように言い始めた。
フェデルタはレルシェルの心情を読んだのであろう。話題を変えることにした。彼独特のトゲのある方法ではあったが。
「あのユリアンが書いていたもう一通の手紙な、あれは誰宛だ?」
「なっ?」
仏頂面のレルシェルの顔が、たちまち狼狽に変わって赤面する。恐る恐る振り返ると、フェデルタが意地悪な笑みを浮かべて見つめていた。
「あ、あれはだな。誰へ、と言うものではない。私もユリアンを疑ってだな……」
「ほう、そうするとあれはお前の手紙か」
墓穴を掘ったレルシェルは耳の先まで顔を紅潮させた。フェデルタの名前を叫ぶレルシェルの声が北門中に響く。兵士達は一瞬その大声量に驚いたが、いつものことかと顔を見合わせて笑っていた――。
第一章・嘘の手紙 <了>