幕間 少女と忘却のエトランジェ 1
少女にとってその女は最初、恋敵のようなものだった。
「兄さん? この人とはどういったご関係なのですか?」
少女は兄を慕っていた。
優しく穏やかで実直な兄。努力を惜しまず勉学に励み続けるその姿をいつも羨望の眼差しで見つめていた。歳が離れていなければ肩を並べて研究に没頭することもできたのかもしれないが、兄を師事し、甘えることのできる今の年齢差も悪くはなかった。
何よりも“兄”の大きな背中を追うことが少女は好きだったのだ。
その兄が急遽、家に帰って来た。
使用人が言うには兄がよく研究室として使っている離れ家に閉じこもってしまったらしい。
自分に会いに来てくれたわけではない。ちょっぴり期待していた少女としてはなんとも残念な展開だが、単純に顔を見れるのは嬉しかった。
だが、玄関を飛び出て離れ家に飛び込んだ少女を待ち受けていたのは異国の女性を抱きかかえた兄の姿だった。兄と妹は驚いたように目をぱちくりと瞬かせ見つめ合う。兄は突然現れた闖入者に驚き、妹は兄が女連れで帰ってきたことに驚愕していた。女っ気のない兄が彼女らしき人間を連れてくるなど思いもしなかったからだ。
薬学に長けた兄に勉強を教えてもらおう、という建前で会いに来たことなどすっかり忘れてしまい、言葉をなくす少女。
そんな少女の心を知ってか知らずか丁度いいところに来たとばかりに兄は妹に頼みごとを口にする。
軽装と食べやすい食事、そしてお湯とタオルを持ってきてほしい、と。
まるで病人を介護するような内容を聞いて少女ははっとする。
兄が抱えている女性をよくよく見ると頬は熱っぽく上気し、顔は土で薄汚れていた。服もまたボロボロで、それを隠すように布が胸部から鼠蹊部まで覆っていた。
訳ありなのだと少女は子どもながらに理解した。
その後の行動は早かった。
母屋へと戻り、兄に頼まれた道具一式を用意する。小さな手でタオルと服を抱え込み、大き目の桶に綺麗な水を満たして宙に浮かせた。少女は魔法が得意で道具を運ぶ程度ならお手の物だった。しかし、料理は作ったことがなかったため、そこはメイドの1人にお願いし夜食を作ってもらうことにした。
離れに帰って来た少女は部屋から兄を押し出す。
これから女性の服を脱がせ身体を拭き綺麗にしてあげなければならないのだ。兄は邪魔だった。
(せっかく兄さんと一緒にいられる時間だったのに……)
自ら手離すような真似をして自分はいったい何をやっているんだと自問自答する。だからといって兄に着替えなどを任せられるはずもなく、黙々と少女は事務的に作業をこなしていく。
魔法で温めたお湯にタオルを浸し、水気を切った後に女性の裸体の汚れを落とす。その繰り返し。
意識が無いのか全く起きる気配はない。
(生きてますわよね……?)
かすかではあるが胸が上下に揺れている。だが、だいぶ衰弱しているのか年齢の割に肉付が悪いように思う。まともな食事をしていないのかもしれない、と少女は推測する。
(何者ですの? あなたは……)
顔の汚れを拭う。目につくのは女性の裸体を煙るように包み込む長い漆黒の髪。それは少女が女性を異邦人だと一目で見破った理由だった。
黒髪の人族など聞いたことがない。いったい彼女は何者でどこから来たのか、そして兄とはどういった関係があるのか聞く必要がある。
「せん、ぱ……」
「……え?」
決意を改めながら寝間着を着せていると突然声が聞こえた。どうやら目の前の女性が発したらしい。
目が覚めたのだろうかと少女が顔を覗き込むが、ただの寝言だったようでそれ以上言葉を喋ることはなかった。
(なんて言ったのかしら……?)
眺めつづけていても応えは返ってこない。その代わりとでもいうように閉じられた瞼の間から一滴の涙がこぼれ落ちる。
(……よくわからないことばかりですわ)
少女はタオルで涙を拭い、着替えの続きを再開する。
余計なことは考えず、今はただ風邪を引かせないようにしてあげようと黙々と世話する。
先の質問を少女が兄に行うのはそれからもう少し後のことだった。




