第零章 青年と少女 生きるために
「……朝、だよな?」
スマホを眺める。
時刻は午前6時を過ぎていた。
だが、青年がいる世界に太陽は昇ってこない。それどころか自分が本当に夜を過ごしたのかすらわからなかった。
――夜が訪れない。
その異変を感じたのはスマホの時計が午後9時を示した辺りからだ。
暗澹な空がいつまでも続き、雨空のように灰色だった。
青年は最初、空が曇っているだけかと思っていた。
だがそれは間違いだった。
この世界は常に白黒テレビのようなモノクロームの世界だったのだ。
夜になっても朝になっても関係ない。
薄暗い世界がその世界のすべてだった。
「……父さんたちは今頃なにしてるかな」
スマホに表示された時間だけが現実を感じさせてくれる。
普段の青年ならまだ寝ている時間。母は朝食の準備をしていて父は静かに新聞を読んでいる時間だ。
(兄さんは……)
最近は勉強が大変だとぼやいていた。
疲れて寝ているのかもしれないし、忙しいからこそ起きているのもしれない。
(俺がいなくなって、どうしてるかな)
家族からしてみれば入学式へ出かけたはずの次男が行方不明ということになっているはず。
(居場所も告げずに出てったことなんてなかった)
もしかしたら自分と同じように一睡もせずに捜し回ってくれているかもしれない。もしくはいずれ帰ってくるだろうと高を括っているか。
青年は想像できなかった。
それ以上想像することをやめた。
「腹、減ったなぁ」
ぐぅう、という情けない音が鳴る。
青年は自分が傷をつけた大樹を見つめた。
大樹の近くには何もない。化物を倒し、転がしていたはずのその場所には何もなくなっていた。
理由は知っている。
青年が化物を食べたから――ではない。
化物の身体がまるで放置された氷のように小さく消えていってしまったからだ。彼はそれをずっと見ていた。
(化物なんて最初からいない。ただの幻だったんだ……そう思えればどんなに楽か)
青年は諦めたように灰色の槍を作りだし、杖のつくようにして立ち上がる。
「まずは……水を探すか」
±
意外にも早く水は見つかった。
周囲を警戒しながら歩くこと30分程度。
青年の眼前には静かにせせらぐ川が広がっていた。
「――っ」
走り出しそうになる衝動を抑える。
化物のいる世界で油断は大敵である。
「……ほんと、便利な力だよ」
呆れるように青年は呟いた。
彼の手の平の上では灰色のコップが宙に浮いていた。
夜が明けるまで暇だった青年はその魔法のような力で遊んでいたため、コツと言うものがわかってきていた。
簡単に考えると“灰”のような塵を固めて粘土のように自由自在に操る能力。武器だけではなく日用品も形作ることが可能で、硬化もできれば軟化もできる。
「慎重すぎるかな」
コップを川に投げ込む。
ワニのような化物に襲われ水の中に引きずり込まれたらそこで終わりだ。
常に最善は尽くすべきだろう。
「よっと」
川の水をコップに汲み、引き寄せる。
次は目の前の液体が本当に水なのか確認する作業だった。
(つっても見た目や匂いでしか判断できないんだけど)
色は透明、匂いは無臭。数滴、肌に零しても痛みや痒みはない。
「……ふぅ」
青年がため息を一つ吐く。
そして、
「わかんねえや」
学校の理科室でもないのに透明な液体相手に自分は何をやっているのだろうか。
水っぽいと判断しても本当に水かどうかは飲まないとわからない。誰も保証してくれない。
そして水を飲まなければ人は死ぬ。
コップを傾け手の平に液体を注ぐ。
透明な液体が揺れ、水面には黒い人影が映っていた。自分の顔が鮮明に映っていたらきっと、観念したように口をへの字に曲げた男の顔が映ったに違いない。
薄暗い世界ではそれもわからなかった。
ちろり、と舌で舐め、口の中で吟味するように舌を滑らせる。
飲み込みはしない。異変を感じたらすぐに吐き出せるように30秒ほどかけて味わう。
ごくり、と喉を通ったそれはほとんど自分の唾のようなものだったが、
「たぶん……水、かな?」
次は手の平に注いでいた液体を全部口に含んだ。
数秒もしないうちに喉に流し込む。
「水だよ……水」
まるで自分に言い聞かせるように青年は連呼した。
まだ水が残っているコップを掴み、口へと流し込む。
それだけでは足りなかったため水筒のような筒を三本ほど作り、また川へと飛ばす。
水筒を煽り、川へ飛ばす、その繰り返し。
喉の渇きが潤うまでそれは続けられた。
「ふぅー……」
満足したように青年が息を吐く。
代り映えのない灰色の空を眺めながら思うことは1つだった。
「異世界にも水はあるのか」
化物と出会う昼夜の存在しない世界。
これを別の世界――異世界と言わずなんと呼べばいいのか、青年はわからなかった。
だがそんな世界にも地球と同じ水のようなものがある。共通点が存在すると別にこの世界は異世界でもなんでもないんじゃないかと思えてしまう。
「どっちなんだよ……」
ぼやいても答えは返ってこなかった。
±
青年の次の課題は食料だった。
川の近くを拠点とし、その付近に食べれそうなものがないか彼は探索していた。
結果は惨敗だ。
木の実のようなものもキノコや果実すら森には生っていない。この世界の生態系はどうなっているんだと突っ込みたくなるほど歪だ。
途中、昨日と同じ姿をした化物に遭遇したが、今回は身を潜めることでやり過ごし戦闘にはならなかった。
「……やっぱりアレを食べるしかないのか」
灰色の水筒に入った水に口を付ける。
武器に使用する“灰”の量を考えると携帯する水筒の数は2本が限度だった。それでも森の中を深追いするつもりはなかったため十分な量である。
問題は食糧であり、青年がアレと呼んだのは先程見送った化物のことだ。
「食欲はそそらないけど……他に食べられるものもないし――」
どうしたものかと頭を悩ませていると、10メートルほど先の茂みから気配というものを感じた。
もしかしてまたさっきの化物か? と青年が身構え、物陰に隠れると茂みから耳の長い兎のようなモノが顔を出した。もちろん、ただの兎ではない。額はなぜか窪んでいて、口元にはクワガタのような顎が生えている。
「……」
あの程度の気味悪さならば許容範囲かもしれない。
そんなことを考えながら青年は残りの“灰”で細く鋭い槍を作りだす。そして――
「――っ!」
獲物へと槍を射出した。
「ギキィ!?」
放たれた槍は兎もどきのこめかみに突き刺さり、柄の半分の長さまで埋没していく。
兎とは思えない悲鳴と共に絶命したのか、それ以上のアクションはなかった。だが、青年は用心深かった。一本目の水筒の水を飲み干し空にすると、それを今度はナイフに変形させ、またも兎もどきに射出した。
脳天を抉るような容赦のない一撃だったが、それでもその兎もどきからは反応はなかった。
「さすがに大丈夫か」
身を隠すのをやめ、仕留めた獲物に近づく。
見た目がかろうじて動物に近いと罪悪感というものが湧くが、初日に殺した化物に対してはそんなもの一切湧かなかった。人間とは勝手な生き物だ。
そんなことを思いながら槍の柄の部分を掴み、持ち上げようとして――
「重っ!?」
予想をはるかに超える重量に思わず素っ頓狂な声を上げ慌てて口を塞ぐ。
そして“灰”を浮かせる力と自分の腕の筋力でその化物を持ち上げて絶句し後悔する。
「ひ――っ」
引きつった声が喉から鳴る。
確かに兎だ。顔は兎だった。
だが茂みから姿を現した身体はまるでムカデのように細長く、何対もの兎の脚が痙攣するように動いていたのだ。
背筋が凍り、思わず身震いする。
(これを食べるつもりなのか?)
自問自答するが、時間は残されていない。
すでに化物の血は蒸発するように塵となり、身体は毛先から幻のように消えていっている。
体長の大きさに左右されるのか、昨日の化物よりも自壊が早い。
「最悪だ……」
悩んでいる暇はない。
青年は槍の柄を地面へと突き刺し、兎もどきの脚を一本掴み――強引に引き千切った。
「気分的には焼きたいけど……」
狩りを終えた後に火を熾す予定だったのだが種類によって消える速度が違うのは誤算だった。青年の目測では火を準備している間に化物の肉は跡形もなく消えてしまう。
選択肢は残されていない。
「腹、壊さないでくれよ」
唇が生暖かい感触を捉え、そのままゆっくりと歯を立てる。
血生臭い空気が喉を通り鼻を突き抜けていく。思わず投げ捨てそうになる衝動を抑え、青年はそのまま化物の肉に齧り付いた。
ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。
味はよくわからない。
美味しいような気もしたが、何となく認めたくなかったので気のせいということにした。
「食ったことになるのかな……これ」
胃の中で消化する前に自然消滅してしまうのではないか?
そんな疑問を感じながらも消え続ける化物を横目に脚を引き千切り口へと運ぶ。
生肉など寄生虫のことを考えれば食べれたものでは無いが、この世界にはまず虫というものが存在しない。化物の体内に巣くう寄生虫だけが都合よく存在するとは思えなかった。
生理的に食べたくない、という意思を無視しての食事。
化物が完全に消滅するまで青年は黙々と食べ続けた。
「……満足感は、ある」
残りの水筒に口をつけ、腹部に触れる。
吐き気や痛みもない。気分は相変わらず。
「……」
空になった水筒を腰に引っかけ、ついでに二本目の水筒も作り直しておく。
(とりあえず食事はできたから拠点に戻るか。水もストックしておきたいし――)
地面に落ちていたナイフと槍を浮かし、ふと、違和感に気付く。
「“灰”が……増えた?」
さっきまで槍と水筒二本が限界だったはずだ。
それがナイフ一本分、分量が増えていた。
「……ま、いいか」
興味を無くしたように青年は歩を進める。
スマホの時間を見ると異世界に来てから丁度一日が経過しようとしていた。
助けが来る気配は感じることができなかった。




