第零章 青年と少女 灰の盾
数分後、彼は自分の判断を後悔していた。
「なんっなん、だよ! あれは……!?」
慣れない森の中を必死に走る。
木々の枝に肌を引っかかれ、木の根に躓きながらもただひたすら走る。
「……くそっ!」
後ろを振り返るとソレはまだ彼を追い続けていた。
「キュルルルルルルルルル!」
ソレはまるで鹿の皮を被った蟹だ。
体長約2メートル。蟹のシルエットからハサミをもぎ取り、獣の皮を悪趣味に被せると出来上がるような多脚の化物。
「なんで追ってくるんだ!」
蹄がある五対の歩脚を器用に動かし迫ってくる。
見つけたのは偶然だった。
進路の先に動く物体を発見し、何か動物でもいるのかと物陰から覗くとソレがいたのだ。
気色悪い外見に青年は思わず呻きそうになり、本能的に危険を感じ迂回するつもりだった。だが残念なことに足音を聞かれ「気付かれた!」と思った時にはもう手遅れだった。
「夢じゃねーのかよ!? これは……っ!」
まるで悪夢だ。
未知の場所で化物に追われる。
こんなことがあっていいのだろうか。
夢ならさっさと覚めてくれと、そう願わずにはいられない。だが、枝に引っかかれてできた切り傷の痛みが、先程より鮮明に告げてくる。
これは現実なのだと。
「うおっ!?」
慣れない森の移動。
草木による自然の障害物。
足がもつれ転ぶのは必然とも言えた。
「……マジかよ」
はは、と乾いた笑いが漏れる。
青年が振りかえると化物が跳躍する姿が見えた。跳びかかり自分を襲うためだということは彼にも理解できた。何故なら今まで見えていなかった腹の部分。そこがまるで蛸の口のように牙を剥き出していたからだ。
(いやだ……! 死にたくない!)
捕食されながら死ぬなんて考えたこともない。
何か武器……いや、盾になるものがないかと周囲を手で探るが当然ながら何も見当たらない。
そして、最後の悪足掻きのように手を翳したとき……それは現れた。
「……は?」
ガキンッという金属と金属がぶつかり合うような甲高い音。
青年の目の前には今にも彼に噛み付こうとする化物の牙が差し迫っていた。だがそれは何処からともなく現れた“灰色の円盾”によって阻まれていたのだ。
「――」
呆然とする青年。
しかし、危機が去ったわけではない。
盾ごと噛み潰そうとする化物の牙がギチギチと蠢く。口枷となった盾から滑り落ちてくるように化物の涎が青年の顔を汚した。
「気持ち悪いなっ!」
仰向けのまま盾ごと化物を蹴る。
とりあえず離れたい。その一心で繰り出したがむしゃらの一撃だ。
「キュルン!」
巻き舌のような鳴き声とともに化物が吹っ飛んでいく。
百キロ以上もする化物の身体が人間の脚力ではありえないほどの飛距離で飛ばされたのだ。
少しだけ怯んだ隙に逃げよう――そう考えていた青年にとってそれはありえない光景だった。
(今のはなんだ? 俺が蹴り飛ばしたのか……? そんな馬鹿な……化物が跳んで避けただけだ)
青年の視線の先には背中を地面に叩きつけられ、ひっくり返ってもがいている化物の姿があった。多脚をくねらせ起き上がろうとするその姿はお世辞にも可愛いとは言い難い。
(……! 盾が無くなってる?)
仰向けにひっくり返ったことで化物の口がよく見えるようになったが、そこに灰色の円盾はない。
噛み砕いたのか、跳んだ時に落ちたのか、周囲を見渡しても灰の盾は見当たらなかった。
(どうせならなにか武器になるもの……剣とかそこらへんに転がって――るわけないか)
化物が動けない間に逃げることも考えた。
だが、すぐに捕まることは目に見えている。
いたちごっこをするぐらいなら武器を持って応戦したい。
(……なんて、な)
そんな無謀な考えを抱き始めた時点で半分諦めているようなものだった。
そもそも武器なんて落ちているわけがない。この森は鉄くずすらない、木の棒がそこらへんに転がっているだけだ。
(ゲームの勇者なら木の棒でも殴り倒せるのかも……って、いよいよ焼きが回って来たな……現実に妄想を持ち出すなんて……はは)
化物と遭遇している――という現実に直面している段階で妄想もくそもないか、と青年は笑う。
(でも……やるしかない)
抵抗もせず死ぬなんてまっぴらごめんだ。
どうせなら最後まであがいてやる。
手短なところで丁度いい大きさの木の枝を見つけた青年は手を伸ばした。それを折って武器にしようと考えたからだ。
そして――伸ばした手を見つめたことで、やっと自分が何かを握っていたことに気が付いた。
「……剣?」
いつの間にか青年の手には灰色の剣が握られていた。
拾った記憶はなく、当然最初から持っていたわけでもない。
だがそれは眼鏡を掛けながら眼鏡を探したり、携帯を持ちながら携帯を探したりする人がいるように、馴染み過ぎていて気が付かなかった感覚に近かった。
「なんでこんなもの持ってんだ俺は……盾の次は剣? 武器なんて槍とか他にも色々ある……の、に――」
青年は言葉を失う。
灰色の剣が勝手に伸びて槍へと形状を変化させたからだ。
(盾、剣、槍……もしかして俺が欲しいと願った物が手に入ってるのか?)
試しにナイフが欲しいと願ってみると余計な部分が粒子状に空気に溶け出し、残った部分が想像通りのナイフの形になった。槍に戻れと念じると灰のようなものがナイフに纏わり付き、瞬時に槍の形をとる。
「……わけわかんねえ」
拙い感想が漏れた。
理解の範疇を越えている現象に頭がついていかない。
「――っ!」
化物が動き出す気配を感じた。
ソレはもう起き上がる寸前であり、最後の隙が終わろうとしている瞬間でもあった。
青年は駆ける。
何も考えず、ただ灰色の槍を構え突進する。
そして――
「キュルルルルルルルル!?」
化物の口内に槍を突き刺し、
「うおおおおおおおおおおおおおおおお!」
そのまま引きずるように持ち上げ、大樹へと突き刺し磔にした。
血が飛び散り、手を、顔を、スーツを汚していく。それでも青年は槍から手を放さなかった。わけのわからない場所でわけのわからない化物にわけのわからない力で戦っている。一瞬でも手を抜いたら化物が奥の手を出してくるかもしれない、急に槍が消えてしまうかもしれない。油断する余裕などどこにもなかった。
「――くっ」
身体全体に力を込める。
みしみしと磔に使っている大樹が悲鳴を上げる。
化物は未だ巻き舌のような奇声と共に脚を振り回しもがいている。
青年の初戦闘とも呼べるその死闘が終わりを迎えたのはそれから約十分後のことだった。
「はあ……はぁ……っ、はぁ……」
動かなくなった化物から槍を引き抜く。
ずり落ちていく化物の亡骸を横目に、青年は膝をついた。
「なんなんだよ、ここは……いったいどこなんだ。誰か説明してくれ……」
もはや夢だの誘拐だの言い張るのは戯言に等しい。
青年は自分の身体を見下ろし、
「傷が、治ってる」
スーツとワイシャツの切れ間から覗く血の跡。
化物ではなく自分の血で汚れた服の隙間からは、無傷の素肌が晒されていた。
ところどころ枝で引っかいた傷も今はどこが痛かったのかわからないほど回復している。
(傷の治りが、早すぎる)
身体に見た目の変化はない。
だが、腕力に脚力、自然治癒力さえもこの森に来てから向上している。もしかしたら他にも異変が存在するのかもしれないが青年に確かめる術はなかった。
(そしてこの灰色の武器)
消えろ、と念じれば手元から砂のように崩れ落ち消えていく。剣を――と考えるだけで自分が想像した形状を模して現れる。
自分の意思によって操作できる、と言っても過言ではない。試しにナイフを何本作れるのか試すと十本ほど同じものが並び、しかも宙に浮いてしまった。
「……」
青年は頭を抱えた。
やはり夢なのではないだろうか、と。
これが現実だとしたら自分はファンタジーのような世界に迷い込んだことになってしまう。もしくは宇宙人にでも攫われ、宇宙船で地球から何億光年も離れた場所にある惑星に連れられ、その反動で能力に目覚めたのだ。
「勘弁してくれ……」
妄想ぐらいはしたことがある。
だが、何の予兆もなくファンタジーの世界に放り出されても困るだけだ。
切っ掛けなんてない。ただ歩いていただけ。自分の家系に特別な秘密があるわけでもない。
(たぶん……)
青年の与り知る範囲ではなぜこのような事態に巻き込まれたのか原因など見当たらない。
それはつまり、
「誰でもよかったってことだろ……」
どうして自分が……そう思わずにはいられなかった。
血で汚れたスーツとスマホを眺める。
本当だったら今頃お偉いさんの挨拶でも聞いて「暇だ」とぼやき、時間をもて余しているはずだった。別に入学式に参加したかったわけではない。彼にとってはその後が重要だったのだ。
「……勘弁してくれよぉ」
家族の顔を思い出し、声が震えているのがわかる。
帰れない。
もう戻れないのではないかという不安が一気に押し寄せる。
だが、心のどこかでまだあきらめるのは早い。出口はどこかにあるはずだと訴えかける自分もいた。
待っていればいつか出られるのではないか、と。
一時間後か、三時間後か、明日、明後日、一週間。突然連れてこられたのなら、帰りも唐突に訪れるかもしれない。そう考えると生きるための渇望が見出せたような気がした。
「生きるためには――」
食料をどうにかしないといけない。
青年は自分を食べようとしてきた化物に視線を向ける。
(アレは俺を食べようと襲ってきた。じゃあ俺は何を食べていけば……)
食糧問題の時点で詰んでいる。
もしかして……と化物を改めて眺める。
自分はあの化物を食べないといけないのかもしれない。
そう考えると鳥肌が立つことを抑えられなかった。
そして――
(……ん?)
異変に気付く。
化物の身体から陽炎のような揺らめきが立ち上っているのだ。
否、それは灰だ。灰のような塵だ。
まるで灰色の武器を作ったものと同じような粒子が化物から発生し、それが空気に溶けるように消えていく。
さらにそれは近場でも起こった。
「血が……」
返り血を浴びたスーツから血の色が薄れていく。
化物の一部である血――その汚れだけが蒸発するように消えているのだ。
幻想的な光景だ。
化物の死はいったいどこへ還元されていくのか、青年は疑問に思った。
そして唐突に灰色のナイフを消し、鉤爪のようなものを両手に装着し地面を掻き分ける。不思議な能力に早くも順応する。そんな自分に若干の嫌気が差すが、今は形振りかまっている場合ではない。
「……虫がいない」
森に入ってから変だとは思っていた。
化物の死体に集る虫さえいない。あまつさえ死体を放置していると自然の摂理を無視しているくせに自然消滅する。
たちの悪い冗談だ。
(食物連鎖とかそういう概念すらなさそうだ……もしかしたらここには化物しか住んでいないんじゃないか?)
青年の疑問に答える者はいない。
この日、彼は何も口に付けることはなかった。
散りゆく化物の亡骸を眺めながら、縮こまるように息を潜め、眠れない夜を明かしたのだった。




