第零章 青年と少女 プロローグ
青年にとってその日は少し特別な日だった。
「こんなもんかな?」
下ろしたばかりのスーツに身を包み、頻りにネクタイの結び目がおかしくないか姿見で確認している。
心機一転――そんな気持ちを込めながら、彼は今までとは異なるネクタイの結び方に挑戦していたところだった。
鏡とスマートフォンを見比べながら前日からの練習の成果を確認する。スマホで調べたお手本サイト。初めは手順がよくわからなかったが、納得のいく出来にはなったと頷く。
「入学式、遅れてしまいますよー」
「はーい」
間延びした母の声が一階から響く。
返事をした青年は自室にある時計を見た。間に合わなくはないがこれ以上遅れると走る必要がある。そんな絶妙な時間になっていた。
ぱっぱっぱ、とスーツを叩きながら周囲を見渡す。忘れ物がないか確認し、財布をしまっていなかったことを思い出す。
「あぶないあぶない」
机の上に置かれていた財布を掻っ攫うように掴み、そのままポケットへと突っ込む。
少しだけ急ぐように部屋を出て一階へ降りると、玄関前で待機する父と母の姿があった。
三十代と間違われる四十過ぎの父に二十台と間違われる三十代の母。青年が幼かった頃はよく友人たちに「お前のかーちゃん若くね!?」と驚かれたものだった。
「どうしたの? そんなところで」
「見送りよ、お見送り。こんな日ぐらいはちゃんと見届けたい親心。スーツ姿カッコイイ~。ね? お父さんもそう思いますよね?」
「ああ、そうだな。……写真でも撮っとくか」
「やめてよ照れくさい。そういう柄じゃないだろ」
青年が靴ベラを使い新品の革靴に足を入れていく。
「そう言えば兄さんは?」
「お昼前にはこっちに着くって。大学の勉強は大変だけどただ飯は食べたい、だって。なんだかんだ言いながら顔を見せてくれるんだからあの子は素直じゃないわ」
「じゃあ予定通りお昼は外でランチか……って、なにしてるの?」
振り返ると同時に父のスマホからパシャパシャという音が連続で鳴り響く。それはカメラの連写機能が誤動作した結果だった。
「沢山撮れたぞ? どうなってるんだ?」
「それはここを……」
首を傾げる父に母が横で操作方法を教えている。
「恥ずかしいからちゃんと消しといてよ」
いくつになっても仲睦まじい両親を尻目に青年は玄関のノブに手を掛け釘を刺す。双方から返って来たのは「おー」「わかってますよー」という何ともいい加減な返事だった。
(これは消してもらえないな……)
「いってくるよ」
諦め、玄関のドアを開ける。
外は青空が広がり門出としては申し分のない空模様だった。
そして――
「いってらっしゃい」
「いってらっしゃ~い」
青年の新たな道を祝福するように送り出す2人の声が背中を後押しする。
彼は振り返り、
「いってきます」
と、照れたように言い直した。
なんでもない日常。
大学の入学式という少しだけ特別な日。
機械音痴な父とおっとりとした母、医学部に進学した自慢の兄。ごく普通でちょっぴり裕福な家庭の何気の無い記憶と記録。
父が撮った写真にはシャッター音に驚いている青年の姿が映っていた。それが青年であった彼の最後の写真になるなど誰も知る由もなく、行方不明となった息子を探すための手掛かりにするなど思いもしないのだった。
±
「ごほっ、ごほっ、が――っ」
妙な息苦しさに襲われ青年は飛び起きるように目覚めた。
「な、んだ、これ――!?」
咳が止まらない。
まるで塵や灰を吸い込んだかのように喉が窮屈で胸が熱い。
あまりの辛さにうつ伏せのまま咳き込む。
「――?」
気のせいだろうか。
咳をするたびに本当に灰のようなものが口から出ている気がした。
だが、口元を手で覆ってもそれらしきものは見当たらなかった。
「……ふぅ――」
落ち着くまでどれくらい時間が経ったのだろう。
数分程度だった気はするがここまで長い咳に襲われたのは初めての経験だった。
そして青年は気付く。
「……土?」
余裕ができたことで、自分が今どこで寝そべっていたのか理解した。
それは自分の部屋のベットの上でもなく、都会のアスファルトの上でも、大学の入学式が行われる講堂のフローリングの上でもない。
湿った土、そして見たこともない落ち葉の上だった。
「やばっ――!!」
自分の姿――買ったばかりのスーツを着ていることを思い出し、慌てて立ち上がる。多少ふらつきはしたが意識ははっきりしており転ぶようなことはなかった。
「あぁ~最悪だ! なんでこんな……」
上着を脱ぐと予想通り土で汚れており、手で払うだけではどうにもできなかった。両親に買ってもらったばかりの一張羅。こんな場所でいきなり汚してしまうとは我ながらついていない。
そんなことを思いながら黙々と土を払っていたが、段々と手に勢いがなくなっていく。
そして青年が周囲を見渡したところでパタリとその手が止まった。
「……どこだ……ここ」
彼がいたのは森の中だった。
見たこともない植物が生い茂り、じめじめとした湿り気と独特の澄んだ空気が肌を刺激する。
こんな場所に来た覚えなどない。
家を出て、駅に向かったところまでは覚えている。その後、そう――
(突然、立ちくらみのような……浮遊感に襲われて……)
そこから記憶が途切れていた。
「……」
夢なのか?
青年は夢を夢だと自覚する明晰夢なのかと疑った。
しかしそれは自分の指に抓られた手の甲の痛みが否定してくる。
(無自覚でどこかの森に迷い込んだ? それとも拉致?)
馬鹿馬鹿しい、ありえないと否定したい――ところだが一番有力のようにも思えた。
(後ろからスタンガンとかで気絶させられそのまま誘拐。森に連れてこられたのは身代金とかではなく相手が愉快犯だから?)
仮説を立てると信憑性が増したように思えた。
事実は小説よりも奇なり、とも言う。世の中の犯罪者がくだらない目的で犯罪を犯してもまったく不思議ではない。
(スマホは……駄目か圏外だ。財布は、ある。盗まれてない?)
財布の中身を確認すると中身が抜き取られている形跡もなかった。
(やっぱり誘拐は考えすぎだったか? でもそれ以外の可能性なんて……いや、俺がこうして悩んでいる姿を犯人が娯楽として愉しんでいる……かも?)
考えすぎて青年は訳が分からなくなってきていた。
一つわかることと言えばスマホに表示された時間のみであり、
「遅刻……どころか間に合わないんだろうな。ごめん……父さん、母さん」
入学式の時間はとっくに過ぎておりもはやどうすることもできない。
周囲を再度見渡しても鬱蒼とした森の中であることに変わりはない。現在地もわからず出口の方向さえ知らない。
彼の脳裏に遭難の二文字が掠める。
遭難した場合その場から動かない方がいい――という話はテレビなどで耳にしたことがある。
しかしそれは遭難した場所を誰かが知っていないと意味がないのではないだろうか。
「こんな経験初めてだからわかんねえよ……」
そもそも青年はアウトドアなタイプではなかった。
海に遊びに行くことなど皆無であり、もちろん山も森も同様だ。
登山家や愛好家であれば熟知しているのかもしれないが、素人の青年にとっては難題だ。
(捜索は期待できない。歩いて森を抜ける……もしくは電波が届くところを探す……か?)
スマホを見つめ残りの電池と相談する。
満タンに近いが余計なことはできそうになかった。
「もういいだろ!」
試しに大声を上げてみる。
「お前らが何の目的で俺を誘拐したのか知らないけど、もう十分だろ! 早く俺を帰してくれよ!!」
誘拐犯が近くにいるという前提で喚くように訴えかけてみる。
だが――
「……反応なし」
もう少し泣き喚くように情けなくしたほうが良かったのだろうか。そうしたら自分を嘲笑するような犯人の声でも聴けたかもしれない。そんなくだらないことを考えながら青年は空を仰いだ。
耳に届いたのは森の木々がさめざめと揺れる音。
視界に広がったのは薄暗くて陰気な空。
出掛ける時に見たあの青空はいったいどこへ行ってしまったのか。
「……歩くか」
出口ないしは電波の届く場所まで移動する。
肩を落とした青年はそれが近道だと判断することにした。この状況に陥った原因を追究するのはもはや二の次だった。
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