過去視
見たところ彼は大学生のようだ。ブルーのシャツにベージュのチノパンという、いかにも大学生らしい格好で、溜息混じりに机に向かっている。
机の上には、ホチキスで左上の隅を留められたプリントの束が散らばっていて、彼は難しい顔をしながらその一枚一枚を睨みつけている。どうやら試験勉強をしているようだ。プリントの中身にも目をやってみたが、需要と供給だとかGDPだとか、少し懐かしい単語が書かれている。僕も大学時代は経済学部だったので、ミクロ経済学やマクロ経済学には相当苦しめられた。今となっては殆ど内容を思い出せないのだが。
不意に彼は腕を高く伸ばし、天井を見上げながら大きく伸びをした。彼と目が合ってしまい驚いたが、彼に僕が見えるはずはないので、何も焦る必要はない。
その時、急に肩に手を置かれ、僕は目を開いた。
「お客様、店内での睡眠はお控え下さいませ」
「あ、すみませ、えっ?」
「どうか致しましたか?」
「いえ、知人とよく似ていたもので。すみません人違いでした」
店員は小さく首を傾げながら、僕が飲み終わったコーヒーのカップをおぼつかない手つきでお盆に乗せて、キッチンの方へ戻っていった。咄嗟に人違いだと言ったものの、あれは人違いなどではない。何故ならその店員は、つい先程目が合った大学生本人だったからだ。髪色は茶から黒に変わっているが、本人で間違いない。
実際僕は寝ていたわけではなかったのだが、一度注意されてしまった手前、少し居心地が悪くなってカフェを出る事にした。レジで例の店員にコーヒー代の500円を支払い、徐々に薄暗くなってきた外に出る。時計を見ると、時刻は17時過ぎだった。
少し早いが、特にやる事もないので家に帰ることにする。駅に向かいながら、先程の店員の事を考えた。きっとあのカフェに通っているうちに、そこでバイトをするようになったのだろう。余程居心地が良かったのか、それとも可愛い店員に惹かれたのか。僕だったら行きつけのカフェでバイトをしようなどとは思わないが、考え方は人それぞれだからこそ面白い。
おそらく先程座った時に見た椅子の記憶は、そこまで昔のものではないだろう。彼は今も大学生っぽい雰囲気だったし、コーヒーカップを下げる時の動作が少しぎこちなかったのは、まだ新人で慣れていないからに違いない。
明日は日曜だ。特にこれといって予定もないので、また今日みたいにふらっと出掛けるのも悪くない。
しかし本当に不思議な現象だ。所謂超能力というものの一種だろうか。椅子に座って目を閉じるだけで、過去にその椅子に起きた出来事を知る事が出来るのだ。最初はぼんやりと過去の映像が見えるだけだったのだが、今でははっきりと見ることが出来る。しかし目線は固定されているらしく、椅子の真上から見下ろす形でしか見る事が出来ないのは少し残念だ。また、集中すると音まで聞くことが出来る。ただし集中しすぎると周りの音が聞こえなくなるので、話しかけられても気がつかない事が多い。例の店員も、何度呼んでも僕の反応がなかったために、熟睡していると思ったのかもしれない。
椅子の記憶が見れるようになってから、人間観察という趣味が新たに加わった。もちろんこの能力に関して誰かに話しても鼻で笑われるだけだろうし、人間観察が趣味というのも多分気味悪がられるので誰にも話すつもりはない。
こうして、僕の土曜は何事もなく過ぎていった。