迷惑をかけないでいられるのは他人だけ
『「なんかあった?」』
二人して同じセリフを同時に発して呆気にとられる。
……アキが誰かに対して、心配していたかのような言葉をかけるのを初めて聞いた。
アキにそんな言葉をかけられるくらい、私は周りを動揺させるような事をしていたのかな。
『…この間、お前の家から怒鳴り声が聞こえた。』
それはいつの話だろう。
この家は毎日といっていいほど怒鳴り声が響く。
“もうひとつの家”でも同じだ。
私は両親が別居してからとても不思議な生活をしていて、月曜日から金曜日の学校が終わるまでは父親の実家で過ごし、金曜日の夕方から日曜日の夕方までは両親が別居前に一緒に住んでいたマンションに父親と私と妹の三人で過ごすという生活をしていた。
学校は父親の実家から通っている。
ちなみにアキと出会ったのはマンションの方で、まだ家族全員が揃っているときだった。
彼の家は私のマンションから徒歩三分くらいで着く住宅街の中にあった。
私たちが5歳になる頃に、もう少し遠い所にある住宅街へ引っ越してしまったけれど。
アキは学校を小学生の時から万年サボり気味で、平気で色んなところをふらふら出歩いている。
電車で二駅先なんてところにある父親の実家の方に気分的に足を運んでいても何も不思議ではない。
いつどちらの家で怒鳴り声を聞いたのかは分からないけれど、わざわざ人の家の近くにまで来てこいつは何をしてるのだろう。
アキは本当に人のインターホンに触らない。一度としてインターホンを鳴らしたことがないんじゃないかってくらいだ。
インターホン越しでアキと会話をしたことなんて一度もない。
いつもチアがインターホンを押して私を呼び出すのだ。
マンションの部屋だって私たちが暮らしているのは四階で、父親の実家は駅から小一時間以上も離れた場所にある。
そんなところまで来て、何故インターホンを一回でも押してみるということをしないのだろう。
以前、たまたま急ぎの買い物があって焦っていたからドアを勢いつけて開けたとき、アキにそのままダイレクトアタックをかましたこともあった。
人の家の前に立っているくせに本当にこいつは何もしないのだ。
ストーカーのように見えるからやめた方がいいと言ってからは家の前に来たら携帯を鳴らすようになったけど。
『……携帯。』
けいたい?え、今日家の前に来たのかな…鳴らしてた?
「ごめん。私の今携帯、親父がセキュリティ設定で相手からもこっちからも電話がかからないようになってるんだ。」
『早く言えそういうこと。鍵屋とチアが心配してる。』
「ああ、ごめん。」
『チアが、お前に会いに行ったけど家の明かりが窓から見えるのに誰も出てこないつって落ち込んでた。』
何気にシスコンだよなとしみじみ思いつつ私は部屋の外に声が聞こえないように出来るだけ声量を抑えて事情を話す。
「親父が、外の事なんかどうでもいいから勉強してろって最近マンションにいる時は中々外に出してもらえないんだ。」
『なんだそれ。おまえ勉強する必要ないだろ。』
「そんなこと言われてもなぁ。言う事聞いてないと、かなり面倒なことになるからさ。」
『面倒な事ってなんだよ』
「んー。思い切り殴られて、寝所も一緒になったり行動制限が厳しくなるとか。親父の言う事聞いてないとほぼ監禁監視状態になるからトイレにすら行かせてもらえなくなるの。」
そう言った途端。
アキの口調が普段以上に鋭くなった。
『それいつから』
冷たい声に内心ビビりながらぼそぼそと小学五年生くらいからと答える。
「エスカレートしたのは中学一年の中間テストが過ぎたくらいだけど。」
『中一の中間?五月末だよな。……おまえ、どこ殴られてんの。顔とか腕とか、俺が覚えてる限りでは会ったとき一度も痣なんてなかったぞ。』
「大体は鳩尾とか太ももとか耳の上あたりとか。あっちは手加減してんだろうけどやっぱり痣は残るよ。でも髪とか服で隠れちゃうから周りには気づかれたことない。プールもサボってるし。」
プールは嫌い。何故なら、…私はかなづちだから。
『おまえなんでそれもっと早く言わないわけ』
「は?」
『はぁ…寝所も一緒とかっていうのはどういう意味』
「そのまんまだけど。親父と同じ部屋に寝るの」
『おまえ自分の部屋あっただろ。親父がおまえの部屋にわざわざ来るのかよ。』
「いや、強制的に親父が寝てる部屋に寝かされるの。」
妹も同じ部屋で寝ることになるから、それは暴力を振るわれるよりも嫌な事だった。
イビキはうるさいし隣で寝るとあまりも寝相が悪すぎて何度も蹴られるし、朝起きると私の掛布団が一枚もないのだ。
『おまえんとこって、ベッドじゃないよな。』
「うん。皆で雑魚寝だよ。」
ソファーベッドはあるにはあるけど、そこで寝ると父親の機嫌がこれでもかというほど悪くなるので寝たことは数回しかない。
『……なにか、されてんだろ。寝てるとき。おまえんとこの親父に。』
ありゃま。
「わかるんだ?」
『そりゃ俺だって男だし。』
その割には女顔だよね君、なんて口が裂けても言えない。
「うん、まあでも。太もものあたりを触られたりとかほんの一瞬胸部に手が当たるとか、それくらいだから。」
話している途中でどこか気恥ずかしくなり限りなく真実をぼかして説明する。
だってどういう風に話したって、どうせこいつは察しつくだろうし。
ほんの少し、お互いに沈黙する。
何とも言えない空気で居心地が悪い。
恥ずかしいよね。うん。
いくら昔からの付き合いだっていったって恥ずかしいことだってあるよね。
『みや。』
アキがぼそりと、私を読んだ。
みや、という呼び方は私の幼馴染しかしない特別なニックネーム。
いきなり名前を呼ばれて、一瞬反応が遅れてしまう。
アキは家族以外の人間の名前を、ほとんど呼ばない。
大抵「おまえ」や「あんた」としか言わないのだ。
「えっ、なに?」
今日はあまりにアキがいつもと違う行動が多すぎて戸惑ってしまう。
『みや、皆と一緒に居たいか?俺たちと。一緒に。』
そんなの聞かれるまでもない。
「居る。」
ずっと一緒にいるし、居させる。
『それなら、みや。明日学校サボれ。妹と一緒に。』
突然そんなことを言われ、唖然とする。
「ちょ、待って。私ついこの間一週間学校サボってたの親と担任にバレたんだけど。」
親からの高圧的なプレッシャーと学校での苛めが嫌で、私は先週の授業を全て風邪ということにして妹の携帯を使い、学校に連絡を入れて親に内緒でサボっていたのだ。
平日は誰も行かない“もうひとつの家”であるマンションの方へ一人で行き、学校が終わって生徒が帰宅するだろうという時間になるまで時間をつぶしていた。
そのことがつい先日学校の担任がかけてきた電話で、父親と祖父母にバレてしまったのだった。
「もう私の方から学校に休みの連絡をしても、学校は信じてくれないよ。私元から信用なかったし。」
『なら千早さんにしてもらう。』
千早さんとは、チアキ双子の義母さんだ。
双子の話ではフリーのジャーナリストをしているらしい。
アキは少し千早さんのことが苦手だということを少し前にチアから聞いたことがある。
私とチアは、千早さんはとてもサバサバした気立てのよい人で、そこらへんの男より男前でかっこいいと思っている。
元々関西出身ということもあるのか一緒にいると会話が弾んで楽しいし、いい人なのにな。
アキは人と話すのが苦手だから、それで苦手意識があるのかな?
まぁとりあえず、千早さんが連絡してくれるのなら私の方は安心かな。
だけど……。
「それでも待って。妹の方に休みの連絡入れたらインフルエンザかどうか妹の担任が心配してお昼時に折り返し電話きちゃう。」
今は学校でインフルエンザが大流行しているので、学校を休むと担任がインフルエンザにかかっているのかと確認の電話をしてくるのだ。
『それなら最初にインフルエンザではないただの風邪で休むっつっときゃいいだろ。少しは脳みそ使えよ』
「ああ!なるほど。」
『それとおまえの妹にはありったけの服を着せておけよ。明日気温相当低いらしいから。おまえも親にバレないように朝制服で家を出るなら、制服の下にセーター二枚重ね着して家の人たちに変に思われない程度に防寒しといた方がいい。』
「……わかった。」
それからアキは、ランドセルの中に入るくらいの肩掛け鞄に必要最低限の妹の必需品を用意しろと言ってきた。
それをランドセルに入れて、玄関を出たらランドセルから肩掛けカバンを出してランドセルを物置に隠せと。
私はアキからの指示を細かくメモにとって、その場で出来ることは実行していった。
そして、アキに言われた用意を全て済ませてから私はとある疑問が浮かんだ。
「ねえ、ただ学校をさぼるだけでなんでこんな大変なミッションをする様な雰囲気になってるの。」
『おまえ、今頃その疑問を口にするって悠長すぎるだろ。』
「なんかこれから家出するみたい」
『人の話を聞け。それとするみたいじゃなくて、する。つかさせる。』
「……ん?」
する?家出を、する?
どうしてそうなったんだろう。
アキがした質問を思い出す。
皆と一緒にいたいか。
私は「いる」と答えた。
それはつまり
「ねえアキ。私、この家に居たら、みんなと一緒に居られなくなるの?」
『そのままそこにいたらほぼ確実にそうなるだろうと思う。今のこの現状においてもそう判断せざるを得ないだろ。』
アキに言われてから確かにそうだよなと思った。
もしこのままここに居続けたらどうなってしまうのかほんの少し想像してしまい全身に悪寒が走った。
『おい、大丈夫か。』
「うん。なんとか。ただ、ちょっと怖いなって。家出……、失敗したらどうしよう。」
『失敗なんてしない。後悔だって絶対にしない。俺たちは全員おまえの味方で、皆と全員一緒に居られるようにするんだから。』
あれ?なんかアキがカッコ良く思える。なんかの末期かもしれない。
自分がどれだけこの家の人間を恐れているのか改めて理解した。
私は頼もしいアキの言葉にひっそり笑いながらいった。
「ありがと。迷惑かけるかもだけど、よろしく。」
今私が言えることは、皆と一緒に居たいという思いはこれから先どんなことがあっても揺らがないということ。
全員揃ってこの先ずっと生きていられるなら、その為ならどんな無茶でもやってやろうと思う。
だけど、自分のその意思で一緒に居たいと思う人たちの大事な“時間”を使ってしまうのはやっぱり申し訳ないと思うのだ。
お金とか、かたちあるものは頑張って返せたとしても時間だけは代わりのものなんて用意出来るものではないし、返せないものだから。
『あのなぁ、迷惑をかけられないでいられるのは、他人だけだろ…!!!』
この言葉。
アキがこのとき私に叩きつけた言葉は、今でも私の胸に深く刻み込まれている。
施設行きになるかもしれない。
皆を何年も待たせて心配をかけるかもしれない。
そういう不安が募って自分の人生の大事な選択を、あと一歩踏み出せずにいた私を解放したのもアキのこの一言だった。
アキの言葉は、今このときも私を支えてくれている。
木枯らしに晒され、感覚が鈍くなり冷え切った右手の中にある携帯電話。
こんな説明で分かってくれるだろうかとヒヤヒヤしながら私は若干酸欠になるくらい話し続けていた。
「なんか分かりにくい説明だったかな。ほんとごめん。ここまで頼って迷惑かけた上に、突然連絡途絶えるとか。またチアには心配されるよね。」
アキは私の話をすべて聞き終えた後。早口気味に私に告げた。
「何年先でも待ってやる。おまえが施設を退所したら全員で迎えに行く。皆おまえに手を貸したことを迷惑だなんて一欠けらも思ってないから。むしろ、おまえがこれでずっと一緒に居られるなら泣いて喜べるくらいうれしいことだって皆言ってる。俺からすれば、お前はもっと周りのやつらの人生引っ掻き回してやろうってくらいの勢いで迷惑かけてやればいいと思う。なんでも一人でやろうとしすぎ。」
アキにしてはかなり恥ずかしい、カッコよく聞こえるセリフだよなと思った。
このときはアキに言われたことがあんまりに嬉しくて気にしていなかったけれど、改めて思い返すと凄い格好をつけているように聞こえるセリフを言っているよなって思う。
アキ本人の前では絶対に言えないことだけど。
こうして私は3月3日。
妹と共に児童相談所のケースワーカーさんの車に乗って施設へ移ったのだった。
私は施設の中で、中学三年生に進級した。
シェルターに入ったあたりから、私はただでさえ父親に反抗してやっていなかった勉強がもっと遅れてしまっていた。
施設ではアキたちと同じ高校へ行けるようにとかなり勉強をしたつもりだったけれど、施設に匿われている子供たちはほとんど家庭内が崩壊していて勉強どころでは無い子が多く、施設内には中学で使うような教科書や参考書はほとんどなかった。
小学5~6年生のドリルや教科書はこれでもかというほど山積みになっていたのは、きっとそのあたりでつまづいてる人が多いからなのだろう。
学習指導員にお願いして中学で使ういろんな教材を用意して貰ったのは、私がその施設に入所して四か月を過ぎたあたりだった。
その四か月間、私はずっと小学5~6年生の勉強をし続けていた。
中学校では、進級してから初の中間テストが終わってしまう頃だった。
高校受験の土台となる一番大切な時期のほとんどを、施設で過ごしていた。