5.思い出の味
シチューの温もりが、体の奥までじんわりと染み渡り、スポーツドリンクが乾ききった喉を潤す。
失われかけていた生気が、確かに戻ってくるのを感じた。
そして何より――右手に握る鰤出刃。
それはまるで、「そこだ」と囁くかのように、スライムの弱点を明確に示していた。
「っしゃあ……行くぞ」
三匹が、同時に跳ぶ。
刹那、世界がわずかに引き延ばされた。
(この感覚……さっきと同じだ)
前世で魚を捌いていたときの感覚。
刃を入れるべき“線”が、自然と浮かび上がる。
スライムを見た瞬間、どこを斬ればいいのかが分かる。
まるで内部を巡る“粘膜の流れ”が、透けて見えるようだった。
「――なら、こうだ」
──スパスパッ!!
刃が弧を描き、吸い込まれるように三匹をまとめて切り裂く。
床に落ちた断片が、ぷるりと震え――
一瞬遅れて、ぐにゃりと形を崩した。
「…………弱っ」
思わず、素の声が漏れた。
弱すぎる。
まさに雑魚スライムだ。
今までの苦労は、いったい何だったんだ。
だが――終わりじゃない。
スライムの残骸から、白い煙が立ち上る。
「三匹ぶん……ってことは……」
煙は集まり、一点に凝縮され――
ポンッ!
ポンッ!
ポンッ!
軽快な音とともに、床に転がったのは三本のボトルだった。
「よしっ、スポドリ三連――」
言葉が、途中で止まる。
白が二本。
そして――オレンジ色が一本。
「……ん?」
拾い上げ、じっと見つめる。
見た目だけでは判断がつかない。
キャップをひねると、ふわりと甘い香りが立ち上った。
「……これ……」
思わず、息を呑む。
「オレンジ……ジュース……!」
胸の奥が、どくんと脈打った。
あまりにも懐かしい。
懐かしすぎて、言葉を失う。
前世――休憩時間や仕事終わりに、冷蔵庫から拝借していた瓶入りのオレンジジュース。
魚を下ろして汗をかいた後、喉に流し込んだ、あの一口。
疲れているほど、甘さが沁みた。
「……はぁ……なんなんだよ、ほんとに……」
喉が鳴る。
もう、我慢できなかった。
ボトルを傾け、口に流し込む。
「……っ、ああ……」
澄んだ甘み。
その奥に、わずかな酸味。
雑味のない、完璧な果汁の味。
「完全に……オレンジジュースだろ……。この世界の味じゃない……」
鰤出刃。
シチュー。
スポーツドリンク。
そして、オレンジジュース。
どれも“かつての世界”のものだ。
口に残る甘さが、なぜか少し苦く感じられ、胸が締め付けられる。
ダンジョンの中は、ひどく静かだった。
遠くで水が滴る音だけが、やけに大きく聞こえる。
もう十五年。
僕――は、この世界で“フェルン”として生きてきた。
鰤出刃に触れるまで、別の世界で生きていたことすら忘れていた。
今の俺は、日本で生まれ、死んだ俺とは違う。
俺は、フェルンだ。
今更、日本での記憶が戻ったところで、元の世界に戻りたいとは思わない。
不便なことは多いが、それでも――この世界で生きてきた。
それでも。
懐かしさだけは、消えてくれなかった。
視界が、わずかに滲む。
だが、今は立ち止まっている場合じゃない。
──パンッ!
自分を奮い立たせるように、両手で頬を叩いた。
おじさんたちが、きっと心配している。
フェニックスの連中は皆、家族持ちだ。
俺が戻らなければ、あの優しい人たちは、無茶をしかねない。
「……帰らなきゃな。一刻も早く」
彼らの家族に、両親を失ったフェルンと同じ思いをさせるわけにはいかない。
そう決めて、立ち上がる。
――そのとき。
ダンジョンの奥から、
今まで感じたことのない気配が、かすかに伝わってきた。
俺は、無意識に鰤出刃を握り直す。
脱出を目指し、探索を再開した――。
◇◆◇◆◇
「はぁ……いつまで此処にいりゃあいいんだよ」
思わず愚痴が零れた。
“一刻も早く帰らなければならない”と決意した俺だったが、ダンジョンの脱出どころか、転移させられたこの階層からさえ移動できずにいた。
何度歩いても、同じような曲がり角に戻ってくる。
壁に付けたはずの小さな傷を見つけるたび、胸の奥が重くなった。
ダンジョンの中であるため、太陽の確認もできない。
囚われてからどれくらいの時間が経ったのかも分からなかった。
体感的には、一週間は経っていそうだ。
本来の僕なら、スライムくらいしか狩ることができず、もうとっくに力尽きていただろう。
だが、この鰤出刃で魔獣を難なく倒せるうえ、ドロップ品が食料になるおかげで、飲み食いに困ることはなかった。
それは、本当に有難いことだ。
だが、食が満たされると、人はさらなる欲求に気づくものだ。
――風呂に、入りたい!!
ダンジョン内では風呂に入ることができない。
何日も籠る場合、パーティーに水魔法を使える者がいれば、“クリーン”の魔法で身体を清潔に保てる。
使い手がいない場合でも、洗浄の魔導具を使えば、同様の効果を得ることができた。
念のため、パーティーメンバー分、洗浄を一回ずつ行えるだけの準備はしていたが……。
二日に一回と節約して使ってはいたが、残りはもう一回分しかない。
――ああ……日本人としての記憶が戻らなければ、ここまで辛くはなかっただろうな。
日本とは違い、水やお湯が貴重なこの世界。
風呂といっても、洗浄の魔導具を使うか、タライに貯めたお湯で身体を拭くのが当たり前だ。
日本人の記憶を取り戻す前のフェルンなら、風呂に入れないことが、ここまで辛いとは思わなかったはずだ。
「……このダンジョンから脱出できても、“風呂に入りたい”って欲望は、なかなか叶いそうにないな」
そう呟き、俺は再び鰤出刃を手に取る。
脱出のために。
そして――いつか、ちゃんと湯に浸かる日のために。
ダンジョン探索を、再開した。




