3.捌くように──斬る
グレートウルフの踏み込みは、驚くほど速かった。
床が砕けるほどの衝撃が走り、距離が一気に詰まる。視界いっぱいに巨大な顎が開いた。
「くっ――!」
反射的に鰤出刃を構える。
武器として見るなら短すぎる包丁。
だが──
(……いける)
その理由は自分でもわからない。
それでも、この鰤出刃なら“届く”と確信めいた感覚が胸に宿っていた。
グレートウルフが跳びかかる。
その瞬間、世界がゆっくりと動き出す。
まるで何かが意図的に速度を落としたように──視界がスローモーションになった。
狼の分厚い筋肉の収縮。
毛皮の密度。
前脚にかかる重心、後ろ脚の蹴り方。
そして着地の癖。
すべてが、細部まで手に取るように見えた。
(……この感覚、知ってる)
魚を捌くときと同じだった。
骨の位置、身の流れ、刃が通る角度──それを“読む”あの感覚。
グレートウルフの身体の線が、まるで魚の身の走りのように見えてくる。
気づけば手が勝手に動いていた。
鰤出刃を握り直し、狼の左わき腹に走る筋の流れを追うように伸ばす。
「──っ!」
刃が吸い込まれるように走った。
──ザシュッ!!
驚くほど軽い感触。
厚い毛皮と鋼鉄じみた筋肉を断ったとは思えないほど、滑らかな手応えだった。
「グルァアアアアッ!!」
咆哮とともに巨体がのたうつ。
鮮血が噴き出し、石床を鮮やかな赤に染めた。
(切れ……た……?)
信じがたい。
手に残る振動は確かに切った感触なのに、脳が追いつかない。
だが狼は死んでいない。怒りと殺気がさらに膨れあがり、再び突進してくる。
「っ!」
横へ転がる。
だが追撃は速い。爪が石床を裂き、破片が頬をかすめた。
(まずい……! 避けきれない!)
咄嗟に鰤出刃を突き出す。
ガキィン!!
爪と包丁がぶつかり、派手な火花が散った。
だが刃は折れなかった。
包丁が衝撃を受け止めてくれたのだ。
「……頼む、もってくれ!」
力任せの押し込みに、腕が折れそうなほどしなる。
石床に靴底が削られる音が響き、じりじりと押し下げられていく──。
と、その瞬間。
(……ここだ)
脳裏に、厨房の光景がはっきり浮かんだ。
まな板の上で滑る魚を押さえ込むときの姿勢。
重心の置き方、足の向き、脇の締め具合。
身体が先に理解し、勝手に動き出す。
鰤出刃を軸に、狼の力の流れを“いなす”。
「──っらああああ!!」
巨体がわずかに傾いた。
その一瞬を逃さない。
毛皮の流れを読み、狙いに刃を滑らせる。
シュッ──。
魚の皮を引くときのように、軽く、澄んだ音がした。
次の瞬間、グレートウルフの後ろ脚が崩れ落ちる。
「グ……ル……ッ……!」
巨体が傾き、そのまま床へと倒れ込む。
切断面から血が出るが、驚くほど切り口は整っていた。
まるで職人が高級包丁で肉塊を切り落としたような、美しい断面。
狼の瞳から光がゆっくりと失われていく。
「…………」
呼吸することすら忘れ、ただ見つめていた。
数秒後、ようやく自分の手が震えていることに気づく。
「俺……今の……」
あのグレートウルフを。
包丁一本で。
(……なんでできた?)
答えはどこからも返ってこない。
血を滴らせながらも鰤出刃は静かに輝き、まるで誇らしげに見えた。
「……お前、ほんとに包丁なのかよ……?」
苦笑しながらも、震えは止まらなかった。
だが──生き延びた。
それだけは確かな事実だ。
その直後、腹がぐうと鳴る。
「……スライムゼリー、欲しい……」
極限の緊張が解けたことで、空腹が現実味を帯びて襲ってくる。
──その時だった。
シュウウウウウ……ッ。
倒れたグレートウルフから、白い煙のようなものが立ち上った。
「……?」
訝しむ間もなく──
ポンッ!
ワインのコルクを抜いたような軽い音が響き、
グレートウルフの巨体は、両手鍋いっぱいのシチューへと姿を変えていた。
「……は?」
あまりの光景に、間抜けな声が漏れた。




