憂いの賢者
……それは、初めは小さな孔だった。
子供の握り拳が入るか入らないかくらいの大きさの。
しかし小さくてもそれは確かに虚空に開いたトンネルであり……その向こう側は「ここではないどこか」へと繋がっていたのだ。
この世紀の発見は秘匿され、世界のごく一部の有力者たちのみで共有された。
数多の大きく力のある集団が優れたスタッフと莫大な資金を提供しこの孔の研究が進められた。
数年後、孔の大きさが直径2mほどに達したある日のこと。
『その世界』はこちらの世界に侵略を開始した。
岩と赤茶けた土ばかりだった荒野は数時間で緑の樹海に姿を変えた。
樹海の浸食を押し留めたのは研究にかかわっていたグループや国々の者ではなく、その事態を予見して備えていたある超人と仲間たちであったという。
…………………。
……………。
………。
そして、現在。
火倶楽市内、某所。
よく整理されている品の良い洋風の書斎で一人の紳士が語っている。
「……あれを事故のように言うのは間違っているのだよ。全ては起こるべくして起こったことだ。天の配剤というべきかな」
長身で彫りの深い顔立ちの初老の男……彼はゆったりとマドロスパイプを吹かしている。
こげ茶の髪に鼻の下には豊かな口髭を蓄えておりモノクルを掛けている。
ワイシャツ、ネクタイにチョッキ、下はスラックス姿。
「見たまえ、この光景を……」
窓の外の風景を示す紳士。
この書斎は地上よりもやや高い位置にあるらしく、見下ろすように市内中枢のビル群を臨むことができる。
「樹海の広がりを彼らは汚染などと呼称しているようだが、私に言わせればこの光景こそが汚染だよ。人は大地を侵し汚し続けているじゃないか。多くの者たちはその事に気付いていながら豊かになった生活を捨てることができずに見て見ぬふりをしている。嘆かわしい……実に嘆かわしいね」
ふーっ、と紫煙と共に重たい息を吐きだしながら軽く頭を振る紳士。
そしてその紳士の話を先ほどから無言で聞いている椅子に座ったスーツ姿の長身の男……。
彼の名は……リゼルグ・アーウィン。
かつて社交界の婦女子たちを夢中にさせた美しい顔立ち……それが今や無残な傷跡だらけだ。
顔を雑に巻いた包帯で覆っている今の彼はB級ホラーの登場人物のようである。
顔面の無数の傷は蘇生直後の暴走状態の時に自分自身で掻き毟って付いた傷だ。
右腕の肘から先がなく、中身のない袖がひらひらと揺れている。
ガイアード・カグラ本社ビルの戦いで壬弥社ユカリに敗れてリゼルグは瀕死になった。
その後、彼は御門製薬のラボに運び込まれて辛うじて命を取り留めたのだ。
御門製薬はガイアード系の企業。
しかし、自分を生かしたのはガイアード社の意向によるものではないらしいという事をリゼルグは薄々感じ取っていた。
瀕死の自分をあのビルから運び出してラボに搬送したのは誰だ?
ハイドライドではない……と思う。
おそらく彼は自分が死んでいて死体として処理されたと思っている気がする。
謎ではある、が。
今の自分にとってはそれもどうでもいい事だった。
「この大地は一度リセットされるべきなのだよ」
「……しかし、それだと大半の人間が死に絶えますよ」
酷いガラガラ声を出すリゼルグ。
喉を切り裂かれて傷付いた声帯は完全には回復せず彼は以前の声も失っていた。
(無様で惨めなものだ。黒騎士の序列三位だった私が……)
数日前にようやく正気を取り戻したリゼルグ。
今日になって迎えが来てどこかへ連れ出されたかと思えばやってきたのはこの男の書斎だ。
「フリッツ・バルドル・アルゴレアだ。教授と呼んでくれても構わんよ。会えてうれしく思う……リゼルグ・アーウィン君」
そこで待っていた男はそう名乗ってリゼルグと握手を交わした……左腕で。
ほんの十数分前の話である。
「だが、超人は生き残る。ほぼ全ての人類が死滅するというのは悲しいことだが、それは致し方のないことだ。自然淘汰だよ。大昔から自然界ではいくらでも起こってきたことだ」
「教授も助からないのでは?」
リゼルグが見たところ、フリッツ教授も超人ではない普通の人間である。
人間は異界化した樹海では生きていくことはできない。
「そうだな。私も新しい時代を見ることなく消えゆく古い世界と運命を共にすることになるだろう。だが、それだけだ。一人の人間が他の大多数と共に消えるというだけ。取るには足らん事だよ」
平然と言い放ち口の端を僅かに上げる教授。
(狂人だが……珍しいタイプだな。穏やかに理性的に狂っている)
教授を見てそう分析するリゼルグ。
この世界の現状を憂いているというのは間違いないのだろうが、その為に人類を死滅させてもいいという結論に達するような者が正気であるはずがない。
……だがこの男、力はある。
権力なのか影響力なのかそれは現時点ではまだわからないが。
少なくともガイアード・エンタープライズ・カグラ社の中に思想賛同者がいる。
「さて、そこで私の活動に手を貸してほしいのだよ。それを期待して君が助かるように手配したのだ」
「……お断りした場合は?」
包帯の隙間から覗く目を若干細めてリゼルグが訪ねた。
「どうという事もないさ。私は君を玄関に案内し、お別れを言う。君は帰っていく。そして、我々はもう出会うことはないだろう」
もう出会うことはないだろう、というのは裏読みすればお前を殺す宣言とも受け取れるのだが、何となくこの人物の場合は言葉の通りの意味なのではないかと思うリゼルグだ。
とんでもなく物騒な目的がある人物の割には彼自身からは血や暴力の気配がしない。
「その後で私は独りになったこの部屋で激しく腰をツイストさせながら踊り狂う事だろう」
「なんでだよ」
そっちも本気っぽくて怖い。
思わずそこらへんで激しく踊り狂っている教授の幻影を見てしまった。
フーッと息を吐いてからリゼルグは目を閉じる。
「……まぁ、いいですよ。お手伝いしましょうか。他にやる事があるわけでもないのでね」
空虚な気分で告げるリゼルグ。
正直この男が踊り狂おうが人類が滅びようが知ったことではないが……。
「それは大変喜ばしいことだ。君の決断に感謝するよ」
自分にはもう何もない。目的も帰る場所も。
これまでに積み重ねてきたものはあの敗北で全て崩れ去った。
序列三位だった自分が六位だったユカリになす術もなく一蹴されたのだ。
正直、生き延びてしまったことが煩わしくさえある。
(あぁ、だが……)
ズキンとこめかみが痛んで顔をしかめるリゼルグ。
あの一瞬が……。
フラッシュバックする。
喉に焼けつくような激痛を感じて意識が急速に闇に沈んでいったあの時の。
僅かな時間交差した視線。
あの時、彼女は自分を……。
(やりたい事がまったくないわけでもないか……)
かみ砕いて無理やり飲み込むようにその記憶を消して、乾いた笑いを口元に浮かべるリゼルグであった。
────────────────────────────────────────
土がむき出しの地面がどこまでも続いている。
乾いた砂を含んだ風が吹き抜けていく荒野で二人の女性が対峙している。
一人は壬弥社ユカリ。
真紅のメッシュが入った黒髪を風に靡かせている彼女は元ヴェーダー帝国の黒騎士序列六位。
近接戦闘においては世界有数のスペシャリストである。
「……ね~、本気で撃っちゃっていいの? 私の指弾、拳銃の弾丸より速くて痛いんだけど」
じゃらじゃらとユカリの手の中が鳴る。
彼女は今無数のパチンコ玉を握っているのだ。
「そうじゃないと訓練になんないでしょ」
向き合っているのは青い髪の少女……ルクシエル・ヴェルデライヒ。
普段は澄んだ湖面のようにあまり表情を変えることが無い彼女。
元ウィンザリア聖王国の聖騎士であり加護の力と呼ばれる神聖魔術の使い手である。
今日は二人はルクシエルの訓練のためにここ、火倶楽の郊外まで来ているのだった。
「まずは一発お願い」
「おっけ~」
返事をするなりユカリの右手からボッと音を立てて金属球が弾き出される。
小型の礫に魔力を込めて指で弾き出すユカリの特技。大体の場合は彼女はこれを奇襲に用いる。
不意を突いたとはいえ以前元黒騎士だったリゼルグさえも被弾している高速かつ小型で処理の難しい弾丸だ。
ルクシエルは高速で飛来する魔力を帯びた金属弾を自分の前方に発生させた青く輝く六角形の魔力の障壁で弾いた。
彼女の得意とする加護の力の一つである『聖なる盾』
以前よりも遥かに発動は早く最小限の範囲を精密に防御できるようになっている。
小型化する事で魔力消費が抑えられている。
ルクシエルは徹底的に魔術の腕を鍛え上げてきた。
速度、精度、連発、持続など全てをだ。
「次、三発」
肯いたユカリが三連射する。
これも難なく三つの小さな障壁を生み出して防いだルクシエル。
連続発動……これも以前の彼女であれば苦手にしていたはずの魔術技能だ。
「十発!!!」
ついに十連射を要求するルクシエル。
それに応じてユカリが放った十連の金属弾は明らかに先ほどの三連射よりも速度が速い。
まだ彼女は本気を出してはいなかったのだ。
「ッッッ!!!!」
煌めきながら順番に虚空に発生する十枚のシールド。
それらが正確に飛来する十発の弾丸を弾いて散らす。
「……よし!!」
ルクシエルが目を輝かせたその時……。
「!!!!!」
打ち合わせにない追撃。
更に三連射。
手の中に残っていた三つの金属球をユカリは全て撃ち出した。
その三発を……ルクシエルは三枚のシールドで阻んだ。
「……ハァッ! ハァッ! ハァッ!!」
呼吸を乱すルクシエル。
全身で汗をかいている彼女。
最後の不意打ちは完全に意識の外から来たので発動に余計な魔力を消費してしまっている。
……だが、防ぎ切った。
そうして、ようやく顔を上げた彼女が見たものは……。
「……………」
自分を見て優しく微笑んでいるユカリだった。
「強くなったねぇ」
ユカリのその言葉にルクシエルが輝くような笑顔を見せた。
珍しいことだ。
普段の彼女は怒り以外であまり表情を変化させることがないので……。
そうしてルクシエルはベタベタしてくるユカリを鬱陶しがるそぶりを見せつつも、そこまで強く拒絶はせずに二人は寄り添って帰っていくのであった。




