車椅子の君
煌神町に夜の帳が舞い降り、夜空に青白い輝きを放つ月が昇る。
閉店時間が過ぎればユカリたちにとっての安らぎの時間、夕食である。
店を閉めてすぐに食べられるようにユカリとルクシエルのどちらか一人は閉店時間の前から食事の支度に取りかかっている。
これが一人で店を切り盛りしていた時にはできなかったので長くユカリの夕食は簡単なものか作り置きか、たまの贅沢として出前であった。
その頃に比べれば今の食卓は天国だ。
「今日もお仕事頑張りました~」
プシュっとビールの缶を開けてそれをグイッと呷るユカリ。
飲み方が豪快で男らしい……というかオッサン臭い。
この晩酌は彼女にとっては至福のひと時。
それは彼女をよく知らなかったとしても、誰だって顔を見ればわかる。
「ぷッッは~~~! くぅ~、この一杯のために生きてるな~!」
「飲み過ぎないでよ……」
眉を顰めて懸念を示すルクシエルだ。
彼女は晩酌はしない。
酒は飲めなくはないが、正直まだ美味しいとは思えない。
「ルクも飲めばいいのに。美味しいよ~」
「私はいいよ。別にそんなにお酒は好きじゃないしね」
それに……と彼女は心の中で付け足す。
目の前の女の数々の醜態を目にしている身としてはヨッパライにいい印象が無い。
自分もああなってしまうのだろうかと思うとアルコールには抵抗感がある。
……お酒は怖い。しっかり自制しなければ、
むう、と残念そうにユカリが口を尖らせたタイミングで彼女のスマホが鳴った。
「あれ? ……先生だ」
少しだけ驚いたようにそう言ってユカリは通話に出る。
「どうも~先生。いつもお世話になっております~」
営業用の猫撫で声100%なユカリ。
しかし、表情から判断するにそう煙たい相手ではなさそうだとルクシエルが分析する。
ユカリがルクシエルをこの半年見つめてきたように、ルクシエルもユカリを見てきた。
彼女の事なら語られずとも色々と理解できるようになっている。
「……はい、はい。わかりました。じゃあ用意ができ次第お伺いしますね。……はい、週末です? 大丈夫ですよ~」
どうやら商談のようだ。
それも彼女の話しぶりからして相当な上得意である事が窺える。
「唐橋センセイっていう御茶の先生なのよ。うちのお得意様でね~。御茶碗見たいから持ってきてくれって。週末ちょっと行ってくるわね」
「わかった。頑張れ」
通話を終えて説明するユカリにエールを送るルクシエル。
ユカリが言う事には唐橋草七郎は茶道の師範であるのと同時に歌人でもあり俳人でもあり水墨画の巨匠でもあったりと……とにかく東方文化を幅広く手掛ける総合文化人のような老人なのだそうだ。
火倶楽においては政界財界に隠然たる影響力を持つ大物調整役でもある。
キョウコの父と並ぶユカリにとっては後援者と呼ぶべき存在の怪老人。
「良くしてもらってはいるけど怖いお爺ちゃんよ。怒らせたら私、この街にいられなくなっちゃうかも……な~んて、そんな事あるはずないけどね~」
そう言ってユカリは暢気に笑っている。
そんな彼女に、そこはかとなく不安になるルクシエルなのであった。
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そうして約束の週末、ユカリは自分の車で煌神町の唐橋老人の屋敷へとやってきた。
広大な敷地の大邸宅。とにもかくにもバカでかい屋敷。
塀に沿って車を走らせれば延々と曲がり角が無い。
この塀の向こう側全てが彼の屋敷の敷地だ。
「相変わらずおっきなお家だな~。家の中で迷子にならないのかしら?」
ハンドルを握りながら思わずため息を付いてしまうユカリである。
この一角自体が貴人たちの邸宅が並ぶ高級住宅街なのだが、それにしてもこの屋敷の規模は常軌を逸している。
さもありなん。ここは火倶楽の住人たちのルーツとなったある東の大国の支配者の血に連なる者の住まいだからだ。
東方に『皇国』と呼ばれる巨大な軍事国家がある。
火倶楽は昔その皇国から流れてきた者たちによって開拓された街なのだ。
唐橋老人はその皇国の支配者『将軍』の家に連なる者なのだという。
城門かと思うような大きな屋敷の門を潜り敷地内へ車ごと入るユカリ。
本来であれば入り口で厳重なボディチェックが行われるはずなのだが、彼女は大雑把なチェックだけで警備の担当者から中へと案内される。破格の扱いである。
……………。
車を置いて荷物を抱えてユカリがやってきたのは屋敷ではなく離れの茶室である。
「急に呼び出して悪かったのう」
姿を見せたのは灰色の作務衣姿の子供の様に小柄な老人であった。
ボサボサの白い蓬髪。髭は生やしていない。
分厚い眉毛の下から丸い三白眼が覗いている。
この老人が火倶楽の巨魁、唐橋ソウシチロウだ。
「いえいえ、ご用命いただきまして光栄です。先生のお気に召すものがあればいいんですけど」
「うむ。早速見せてもらうぞい」
促されて茶室に上がり、そこで老人の手による茶を……。
別に点てて貰ったりはしないのだった。
「めんどくせーじゃろ、そんな事やられたって。大体がおンし、コーヒー党じゃしな」
「それとこれとはまた別でしょ。点ててくれたっていいのに」
あまりにもざっくばらんな老人の物言いに流石のユカリも苦笑するしかない。
ユカリが持って来た抹茶茶碗を老人が吟味する。
桐の箱に納められた器を丁寧に。
「こりゃええな。貰うぞい」
こういう時、この老人は迷わない。
パッと見て即座にいるのかいらないのかを決める。
「いい艶じゃのう。これも貰おうか」
「ありがとうございます」
畳に手を付いて恭しく頭を下げるユカリ。
数十万から百万を超える品もあるのだがそんな事はお構いなしにぽんぽん買ってくれる。
「……そういやおンし、なんぞえらい目に遭ったらしいのう」
茶碗を吟味しつつ、老人が不意にそんな事を言った。
……先日のガイアード・カグラ本社での騒動の事だろう。
流石にお見通しか。火倶楽の中では限りなく彼は千里眼だ。
「まぁ……たま~にありますね。ああいう事は」
ユカリが後ろ頭を掻きつつ苦笑する。
確かに先日のアレはこれまでのこの類のトラブルとしては最大級のものだった。
何しろユカリが死に掛けたくらいだ。そんな事は黒騎士時代から数えてもほとんど経験していない。
「三好ショウセイ……生きとるぞ」
「んげッ!!!!」
しかし続いた老人の言葉には流石のユカリも思い切り顔を引き攣らせて仰け反ってしまう。
「……本当ですか? しぶといオッサンだな~……あんにゃろー」
心底疲れた表情で嘆息するユカリ。
流石にあそこまでやれば死んだと思っていたのに……。
「うンむ。生きとって、どこぞに身を潜めた所まではわかっとるんじゃが……。そこから先の事は見失ってしもうてわからん。なんかわかったら教えてやるわい」
「お願いします……。もう私の事は綺麗サッパリ忘れてどっか遠くいってくれないかな……」
はは、と暗~い表情で引き攣り笑いを浮かべるユカリ。
……………。
そうして二人の商談が終わり精算が終了する。
「昼飯を食うていけ。いい鯛が入ったんじゃ。天ぷらにさせておるでな」
「お、やったー! ご馳走様です!」
死んだと思い込んでいた宿敵ショウセイが生きていたという情報でしおしおになっていたユカリが一発で生気を取り戻した。
鯛の天ぷらで釣り合いが取れる話なのかという疑問はあるが彼女はそう言う女だ。
「準備ができるまでの間、美玲の話し相手になってやってくれい」
「ミレイ様いらっしゃるんですか? あ、そっか……今日はお休みだ」
この広い屋敷でソウシチロウ老人と暮らす少女、比良坂ミレイは学生である。
なので平日のこの時間帯には屋敷にいない。
……………。
広大な中庭。立派な松の木が植えられ錦鯉の泳ぐ大きな池がある。
そしてそこに小さな東屋があった。
ユカリの目的地はその東屋だ。玉砂利を鳴らして彼女はそこへ向かって歩いていく。
東屋には車椅子の女性がいる。ベージュのブレザータイプの女学院の制服に身を包んだ少女。
ゆるやかにウェーブのかかった栗色の髪で、ややつり目気味の凛とした雰囲気の美少女だ。
「……ユカリ!」
読んでいた文庫本から顔を上げて目を輝かせる少女。
「ご機嫌いかがでしょうか、ミレイ様」
慇懃に恭しく丁寧に頭を下げるユカリ。
その様子にミレイと呼ばれた車椅子の少女はムッと口を尖らせた。
「他人行儀! そういうのやめてって言っているでしょう」
「えっとぉ……そういう訳にも~」
少し困った顔でユカリが笑う。
この少女の出自を自分は知っている。
世が世なら自分など声を掛けるどころか接近する事すら許されないような血筋の娘なのだ。
「畏れ多くもミレイ様は上様の姪御様であらせられますので」
「ふん……」
ユカリの言葉にミレイは鼻を鳴らすと口元を皮肉気に歪ませる。
ミレイは『皇国』の幕府の当代、現将軍の姪……兄の娘に当たる。
ただ、複雑な事情により将軍家縁者としての公の立場は無く将軍家の姓を名乗ることも許されていない。
「姪御さまね……。そう言えば聞こえはいいけど、実際は叔父様のお情けで生かされている厄介者……」
「ミレイ様ぁ~……」
ユカリの声が少し揺れた。
普段彼女があまり見せない寂しそうな表情で。
「……御免なさい」
ミレイが気まずそうに俯く。
本音ではない。言葉を間違えてしまった。
ただ、ほんの少しユカリに構ってほしい……それだけだった。
自分の面倒くささ、厄介さにため息が零れそうになる。
「わざわざ顔を見せてくれた貴女に取るような態度ではなかったわ。重ねて謝罪します」
「私の事はお気になさらず。ミレイ様の可愛らしいお顔には笑顔が良くお似合いですよ」
微笑むユカリ。
その顔を見たミレイの鼓動が早まる。
「ありがとう。……ねえ、少し歩きたいわ。肩を貸してくれる?」
車椅子の肘置きに手を置いてミレイが立ち上がろうという仕草をする。
「わかりました。お足元気を付けてくださいね」
肯いて優しくミレイの手を取るユカリ。
その彼女の腕を支えにして少女はふらふらと立ち上がる。
ミレイは左の足に麻痺があるのだ。杖を突けば歩けないこともないが車椅子で過ごすことが多い。
「……あっ」
躓いたフリをしてミレイがユカリの腕の中に倒れこむ。
(……ああ、ユカリ)
そっと優しく自分を支えてくれている細いのに力強い腕。
その豊かな胸元に顔を寄せるとユカリの鼓動が聞こえる。
(私の……ユカリ……)
目を閉じてしばしの間そのまま動かないミレイであった。




