蛇沼シズマ、風邪を引く
……最悪の目覚めだ。
頭に激痛、四肢も軋む様に痛む。
咳が止まらない。咳き込む度に喉にも刃物を飲み込んだかのような痛みが走る。
「……くそッ。げほッッ……!!」
咽てよろめき、ソファの背もたれに手を突いたシズマ。
何と言う事だ、これは風邪か。自分は風邪を引いたのか。
眠る前からその兆候はあった。
咳が出ていたし寒気もしていた。
眠れば復調するかと思って眠りに就いたのだが……どうやら甘かったらしい。
物心付いた時から風邪を引いた記憶などないのだが……。
視界がぼやける。
まっすぐ歩く事すら困難な程足に力が入らない。
頭の中は百の鐘が鳴り響いているかのようだ。
キッチンへ行ってどうにか水を飲んだが、たったそれだけの動作でも全身の気力を振り絞らなくてはならなかった。
「どうすればいいんだ、これは……」
満足に身動きが取れない。
部隊に連絡を……。
ダメだ。頼れるような相手は部隊内にもいない。
万一自分の秘密を知られてしまったら大変なことになる。
「~~~~ッ」
途方に暮れて思わず自室の天井を見上げるシズマであった。
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火俱楽国際空港。
一面ガラス張りの二階ロビーから見えているのは多様な航空会社のカラーリングが施された多くの旅客機。
一日平均して5万人以上の利用者がいる火倶楽の空の玄関口。
大勢の利用客でごった返すロビーに佇む一人の男。
灰色のロングコートにサングラス……テロ組織『火倶楽解放戦線』に協力する男、クロカワ。
黒いレンズの向こう側の目が行き来する人々を冷たく観察している。
やがて一機の国際線が到着し到着口より大勢の乗客が吐き出されてくる。
その中に一人やはりスーツにロングコートという出で立ちの体格のいい男がいた。
銀色の髪をワックスで撫で付けた彼はスーツケースを手にまっすぐクロカワに向かって歩いてくる。
近づいてくる男に向かって軽く手を上げるクロカワ。
初対面の相手だが相手の面相の画像は事前に受け取っている。
「ようこそ、火倶楽へ。ミスター……ええと?」
「好きに呼んでくれ。本当の名前は随分昔になくしちまった。それからは識別番号で呼ばれてたんでな」
肩をすくめて少しだけ口の端を上げニヒルに笑う銀の髪の男。
隠そうとしても暴力の世界のプロフェッショナルである事が雰囲気から窺い知れる。
「……ではヤマモトさんとしようか。行こう」
たった今仮名が決まったヤマモトを促して歩き始めるクロカワ。
彼は歩き出しながら数日前の自分の上司とのやり取りを思い出している。
……………。
『ヘビヌマかよ~。お前、そりゃ統治局が抱えてる超人の中でも一番ヤベえ奴じゃねえかよ。いきなりそんなモンぶつけてくるなよなぁ』
スマホの向こうから聞こえてくる男の声はどこか気だるげで、そして荒んだ空気を孕み不機嫌そうで……それでいて不思議とどこか楽しんでもいるような……。
つまりはそれを発する人物の人柄そのものともいえる声音なのだった。
常からの彼は大体そんな感じなので聞いているクロカワには思う所はない。
「そこはこちらではコントロールの難しい部分ですからね。不幸な巡りあわせでした」
淡々とそう返答するだけだ。
『不幸でした、じゃねえんだよ。強化人間じゃ超人には勝てません、ってのはしょうがねえとしてもよぉ。出て来られたらもう後はやられるか逃げるしかしかないです、ってんじゃあ商材になんねえだろうがよ~』
「おっしゃる通りです」
スマホの向こうの男が遠国から送り込んできた二人……最新の技術で調整された強化人間二人は蛇沼シズマに赤子の手をひねるかのように殺されてしまった。
二体でその有様では対オーバードの戦力としては成り立たない。
『せめて特定の条件下なら奴らに一泡吹かせられるってのを証明しねえとな~。この前話した例の試作体を送るから上手く使ってどうにかやってみろよ~』
「わかりました、三好課長」
静かな声で了承を伝え、クロカワは通話を切った。
…………。
隣を歩くヤマモトをチラリと横目で窺うクロカワ。
銀髪の大男は暢気にスマホからイヤホンを繋いで音楽を聞いている。
(試作体……特定の状況下においての運用に特化された最新型強化人間)
現在、上司が出張中であるガイアード・エンタープライズ・アルヴァネス社軍事部門謹製の人間兵器。
火倶楽における運用実験の結果が良好であれば世界中の戦場へ彼の兄弟が出荷される事になる。
(基本構想名は……『姿無きもの』か)
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煌神町一丁目、高級住宅街や高層マンションの立ち並ぶ一角。
所謂「お金持ち」さんたちの住んでいる町。
そのマンションの内の一棟のロビーに今ユカリが来ている。
「……いいトコに住んでるのねえ」
独りごちる彼女は両手にパンパンの白いレジ袋をぶら下げている。
ここへ来る途中に買い物してきたものだ。
「私~、着いたわよぅ」
『今開ける』
スマホから聞こえてくるのは酷いガラガラ声だ。
まあ、わざわざ自分を呼び出すくらいだから相当に体調が悪いのだろう……そう思うユカリ。
ロビーの自動ドアを開けてもらいエレベーターで上階へと向かう。
そしてやってきた彼女の部屋はユカリが想像していたよりもずっと片付いていた。
高層階からの外の眺めは別格だ。
夜になればきっと綺麗な夜景が臨めるのだろう。
(……というか、物が少ないわね)
必要最低限の物しか置いていない、という感じの部屋だ。
とはいってもその最低限はいずれも最高級の品である。
壁には巨大なスクリーンタイプのテレビが掛かっている。
音響設備も本格的だ。
「……悪かったな、急に……ごほッ」
そしてゆらりと幽鬼のような足取りで姿を見せたこの部屋の主……蛇沼シズマ。
相変わらずの上下真っ黒。部屋着もそうなのか。
長い黒髪の隙間から見えている顔は普段以上に青白い。
「あ~もぅ、起きてこなくていいわよ。ホラ寝てなさいって。ベッドは……って、ベッドどこ?」
「そんな……ものは、ない」
しわがれた低い声でそう言うとシズマはソファに倒れこむように横になる。
そうして額の上に腕を置き、ふーっと重たく長い息を吐きだすシズマ。
「えぇっ!? ベッドないの!? この部屋!!」
「必要だと思ったことが………ないから、な」
乱れた呼吸の中で呻くように言うシズマ。
ソファで事足りる、とでも言うかのように背もたれをパンパンと軽く叩く。
「今が正にその必要な時だってば」
やれやれと嘆息するユカリ。
やや殺風景な部屋だとは思ったがまさかベッドがないとは。
……シズマから急に連絡が入ったのは午前中のことだ。
風邪を引いて身動きが取れずに困っている。いくつか買い物を頼まれてくれないかというヘルプであった。
店はルクシエルに任せて買い物を済ませてユカリはここへやってきた。
「でも驚いたわ。あなたが私に助けを求めてくるなんて」
まずスマホの番号を知っていたことに驚いたのだか、考えてみれば前回ドーナツを強引に食べさせた時に無理やりスマホの番号を交換したのは自分であった。やっておいてすっかり忘れていたのだ。
「職場の連中は……俺の秘密を知らない。ごほッ! お前にはバレている……だから、お前しかいなかった」
「あはは、口説き文句みたいね」
蛇沼シズマは……実は女性だ。男装の麗人というわけだ。
ユカリはそれを超人的な嗅覚によって……というか、趣味趣向の延長による鋭い洞察力によって見抜いていた。
それにしても職場でも知られていないとは徹底している。
ユカリは買ってきた品物の一部を冷蔵庫に移す。
スポーツドリンクやヨーグルトなど。
後は注文を受けて解熱剤などを買ってきている。
「食べやすいものを作るから待っててね。……よかった、お鍋はあるわね」
いつの間にかエプロンを着用しているユカリがキッチンを物色する。
「そこまでしてくれなくて……いい」
「何言ってんの、買い物にも行けないくらい弱ってるクセに。具合が悪いときは素直に甘えておきなさいよ」
鼻歌交じりに料理に取り掛かるユカリ。
「ユカリさんのおじやは体調いい時だって食べたくなるくらい美味しいんだからね。自信あるんだから」
並べた食材、味噌、ネギ、人参、鶏肉……そして当然卵。
ごはんはレトルトだ。
……そもそも炊飯器が無かったのでベストの判断であった。
「……シズク」
「え?」
不意にぽつりと口にしたシズマ。
ユカリが彼女の方を見る。
「蛇沼シズク……お前が前に聞きたがっていた、俺の……本当の名前」
「ああ、別によかったのに。なんだか弱ってる所に付け込んだみたいだし」
いいよ、というように軽く首を横に振ったシズマ……いや、シズク。
「蛇沼シズマは双子の兄貴の名前だった。……もう死んでしまっていて今はいない。俺は……事情があって兄貴の身分で生活してる」
「いいの? そんな事まで話しちゃって……」
流石に眉を顰めるユカリ。
随分と込み入った事情に意図せず踏み込んでしまっている。
「どうだろうな……。いいか悪いかで言えば、きっと……よくはないんだろう」
よくはない、と言いつつも自分の秘密をユカリに明かしたシズク。
彼女はどのような心境であるのか、それを端的に表現することは難しい。
それを何となく察してユカリは黙る。
そうして、会話は途切れて……。
いつの間にかシズクは眠りに就いていたようだ。
時折咳の交じった寝息が聞こえてきている。
『超人』と呼ばれている存在はめったに体調を崩すことはない。
それだけに経験の浅い不調は精神にも不具合をもたらすのかもしれない。
彼女の告白はそんな弱った心から出た気の迷いのようなものだろうか……?
いずれにせよ聞かされたからといって自分は彼女に対する接し方を変える気はないし誰かにそれをしゃべる気はない。
「風邪かぁ……。私も魔人て言われるようになってからは一度も引いたことがないな~」
最近では『超人』と呼ばれているのだったか。魔人だの魔女だの言われていた自分の時代からすれば小洒落た呼び名になったものだ。
鍋をおたまでかき混ぜつつ、そんな事を考えながら独りごちるユカリであった。




