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横断歩道女子高生

作者: 覡天狐
掲載日:2025/10/28

 春の朗らかな風が誰よりも早く駆け抜けていく。桜は短い晴れ姿を謳歌し終えていて、次に繋がる青い葉が瑞々しく茂り始めている。新しい世界が始まる季節はその中でもひと月ぐらい。五月にでもなれば、多くの人は普通の世界に生きている。


 学生たちの笑い声。サラリーマンの乾いた足音。遊びに出かける老若男女の軽い足取り。朝を告げる音でも、夕方を知らせる音でも、夜を伝える音でもある平静な日々の象徴。全く不快ではない喧騒は、途切れることもありながらこの道を通り過ぎていて。

 

 道と路。

 歩道に車道。


 ここは歩行者のための道。歩く人もいれば走る人もいる。だけどこの場所は限定的に開かれる特別な道。車が黙ってそれを見届ける地上の橋。『横断報道』歩道橋とは違うけれど、これはもっと身近な橋だった。


 カッコーカッコーカッコー


 機械仕掛けの鳥の音。飛び立つことはなく、いつも橋の開通を教えてくれる。可愛くもあって、ずっと聞いていても飽きることはない。一応赤い色と青い色で目で伝わる部分もあるが、私はこの音が大好きだった。


「おはよー」


 私は横に並んできた小さな少年たちに声をかける。


「だるー」

「今日の体育何だっけ?」

「振り替えで体育なくなってるよ」

「マジか……」


「マナカちゃんがさー」

「分かる。ちょっとキツイよね」


 背中に背負った大きな色とりどりのランドセルが彼らの属性を伝えてくれる。青に、緑に、茶色に紫。もうこの時代赤と黒の二色を探すほうが難しい。小さな彼らにとっては大きく重い足かせだろうが、それは夢の重さでもある。出来る限りいっぱい詰め込んでいてほしいけど、無理は禁物。


 ランドセル、スクールバッグ、それらは一目でその人の属性が分かる優れモノだ。制服なんかは特に分かりやすい。お巡りさん、お医者さん、メイドさん、コックさんとか。

 

 この服を身にまとっている以上私も他人に見られれば間違いなく高校生と思われる。間違いではないのだが、どこか気恥ずかしさを感じてしまうのは私だけなのだろうか。


 信号機の色が変わる。初めに変わるのは車の方。続いて歩道。


 カッコーカッコーカッコー


 彼らは元気に手を上げて渡っていく。会話は渡っている最中でも続いていて、学校に着くまで続いていく。きっと大人になる頃には誰も内容なんて覚えていない。だというのに、彼らは真剣に今日と昨日と明日の話をしていくんだと思う。


 ここは車通りも人通りも多い大きな道にかかるボタンのない横断歩道。近くには高い建物も街路樹もバス停もあって人の行き来の絶えない生き生きとした道だった。右を見ても左を見ても常に誰かが歩いていた。車も信号機さんが止めてくれないと誰も渡れないぐらい走っていて。仕事をする信号機さんの響き渡る音はちょぴり誇らしそうに聞こえる。


「いってらっしゃーい」


 私は笑顔で手を振って彼らを見送っていく。


 すぐに鳴き声は止んで、新しく誰かがやってきた。


「――あ! おはようっ!」


 それは毎朝会うのを楽しみしている高校生の男の子。


 俯きがちで、ボサボサの髪の毛。丸まった猫背気味の背筋。暗そうな印象を与えかねない特徴だが、可愛い顔立ちであることを私は知っている。


「…………」


 彼は黙って、対岸にかかる信号機の色を見つめていた。


 もうそろそろ急がないと遅刻になってしまう時間。けれど、焦る様子は微塵も見せない。


「いつも思うけど、もっと早く来たほうが良いと思うよ」


「…………」


 返事はない。


 生気の感じない気だるげな瞳。学校が嫌いな人なんだと思う。心配だった。彼からいつ学校に行かなくなってもおかしくない気配を私は感じている。とは言っても、もう一年以上は通っているところを見るに無駄なことかもしれない。


 カッコーカッコーカッコー


 再び色が変わって音が鳴る。


 向こう岸に引き寄せられるように重い足取りが橋を超えていく。


「いってらっしゃい!」


 より一層元気付けるために大きな声で背中を押してあげる。


 無駄であっても構わない。もともと元気であればそれ以上に、何かが辛いのであればそれを吹き飛ばせるように。


「…………」


 返事はやっぱりなくて……。


 まあ、仕方ない。


 気持ちを切り替える。


 そもそも彼だけではない、小学生達も他の人にも声を返された事は一度もなかった。会釈も無ければ、視線を合わせてくれる人もいない。まるでそこに誰も居ないみたいに素通り(無視)されている。



 

 だって、私は幽霊だから。


 誰にも見えないし、聞こえないに決まっている。


 この横断歩道で死んじゃった地縛霊。


 ほとんど記憶はなくて、自分が誰かも、大切な人も覚えていない忘れん坊。だから、悲しくもない。不安もない。寂しくはあったけど、もう慣れてしまった。


 ……少しは良いこともある。こんなところで死んだからには凄く痛い最後だったはずだから、その時の事を忘れられたことは神様に感謝している。


 私は毎日毎時間、この横断歩道を渡る誰かを見送るオバケ。もう何年もここにいる。だからこの服だけはどうにかしたいと常々思っていたり……。一般的に女子高生でいられるのは三年間だけだから、私は少し通り過ぎてしまっている。歳を取らないから似合わなくなるということがないのが救いだった。


 すると、また誰かがやってきた。


「――――」


 忘れん坊だと言ったけど、少し訂正。


「……おはようございます」


「…………」


 肩ほどで切り揃えられた暗い茶髪に清潔感のあるパリッとしたスーツ姿。誰もが憧れるOLさんのような女性。彼女は横断歩道を渡るために来たのではない。毎月のこの日にこうして横断歩道近くのガードレールに誰かのために花とジュースを置いていく。誰かのために……。


 …………なんとなく、私の大切な人なんじゃないかと思ってる。親友だったり、もしかしたら家族だったのかもしれない。記憶がないから確信は持てていないのに漠然と彼女の事を気にかけてしまう。


「いってらっしゃい……」


 同じ道を引き返していく後ろ背を見送る。こんな綺麗なお姉さんが悲しそうに歩道を見つめる姿を見るのは辛い。抱きしめてあげたくてたまらなくなる。


 私にはこうやって、届かないはずの声をかけることしか出来ない。それでも、私に対しての哀悼ではないのだとしても、あのお姉さんに元気に笑ってほしいから聞こえない声をかけ続ける。笑顔で手を振って。背が見えなくなるまで。


「…………」


 いや、よく考えれば死んじゃってお化けになった女子高生に笑顔で手を振られることは怖いことかもしれない。


「むむむ……む……」


 しかし、思いは大切なものだし、分かってもらえるはず、そう考えることにする。


 そうしているだけで時間が過ぎていく。


 お昼になれば流石にあまり人は通らなくなる。たまに見かけるのは犬の散歩をしているご老人さん。私がいないことに気付かずに独り言をする時もあって、つい不可抗力で話を盗み聞きしちゃう。


 ちなみに、ワンちゃんも私には気がついてくれない。他の動物でもそうだ。猫もカラスも知らぬ顔。幽霊が見える人もいないし、私が消える予感もなくて。もしかすると永遠ここにいるのかもしれない。


 辛くはない。


 ここは皆の人生の一部を見届けられる場所だから。


 一人で登校している中学生の子が、二人で来るようになって、恋人同士にみたいになって。いつも遅い時間にくる小学生が、早く来るようになって、卒業したのか来なくなって。ベビーカーを乗せたお母さんが、自転車の後ろに子供を乗せるようになって、子供が一人で来られるようになって…………。


 それが凄く楽しかった。元気を分けてもらえた。私が送れなかった人生を送っている人を見ると羨ましくないといえば嘘になる。私も友達と一緒に学校に行ったり、好きな子と一緒に帰ってみたかった。忘れているだけでやっていたのかもしれないけど、覚えていなければ同じ事。だから皆に私は私の未来を重ねて見ている。勝手に希望を託してる。元気をもらっている立場なのは分かってる。でも、それぐらいは許されていいと思う。


 時間は誰にも止められない。幽霊だって多くの人と同じ時間を生き、て……過ごしている。


 だから、気が付けば夜になっていることだって何度もあった。夕方からかけて人通りは増え始めてきて、それでも日が落ちる頃には朝とは違って少し寂しい感じ。辺りが暗いこともそうだけど、一日の終りを皆心に浮かべているから。


 すぐそこに夏が控えているというのに、まだまだ肌寒そうで、車が連れてくる風は強くそれを感じさせると思う。


「あ、満月だ!」


 今日は大きく真ん丸な月が空に浮かんでいた。この辺りには街灯もビルの明かりも沢山あって。星を見る場所としてはオススメはできないけど、月だけは変わらない。田舎であろうが、都会であろうがその光を十分に見せびらかしている。


 お天道様もお月様も私と似たような存在だと思わせてもらってる。小さすぎる人間たちを一人一人は見分けられなくても、ずっと平凡な日常を私と同じように見届けてくれている。朝と夜。それぞれに別れているから時間は私より少し短いけど。これだけ広ければ仕方ない。お月様には朝にどこかに向かう人たちの話を、お天道様には夜にそれぞれの家に帰る人たちの話を私が代わりに僭越ながらさせてもらう。


「…………」


 目を瞑って夜空を見上げる。こうすればそこにいる月とそこにいるはずの星を平等に眺められる。短くない時間。通り過ぎる車の音。誰も居ないのに鳴き続ける信号機。


 十分に今日の一日を伝え終える。


「……? あれ?」


 目を開ければ横断歩道の向こうに見慣れた顔が現れた。街灯がしっかりと夜の闇の中その人を伝えてくれる。


 学ランに学生カバン、見慣れた高校制服。少し整えればカッコよくなるはずの顔立ち。


 そういえばまだ帰ってきた姿を見ていなかった。普段であれば暗くなる前の夕方に同じようにトボトボ帰ってきていたはずなのに。


「…………」


 彼は今朝も見たお気に入りの男の子。いつになくボサボサの髪で、泥みたいに濁った暗い瞳はどこを見ているのか定かじゃない。


「? 今日は遅かったねー! お帰り!」


 しっかり届けるため口元に手を当てて、いつも以上に元気に声を浴びせかける。


 ゾクゾクとする嫌な予感を背筋に感じて、かかないはずの冷や汗が溢れ出そうだ。


「今日は楽しかった?」


「…………」


 伝わらないと分かりきっているのに、声をかけることをやめられない。


「私はね、うーん、楽しかったー。最近来なくなってたお婆さんがお孫さんと通ってくれたんだー」


「…………」


 黒い闇に厭に目立つ赤い止まれの光。つまりそれは、車道側に進めの光が出ているわけで、当然のようにこの横断歩道は車に横切られる。


 ビュンと車が一台二人の間を通り抜ける。


 再び見えた彼の表情は冬の中で取り残されたみたいに凍りついたまま変わらない。


「…………」

「――――」

 

 ――しかし、何も起きない。悪夢のような想像は実現しない。しなかった。


 カッコーカッコーカッコー


 進めを意味する青い光が輝き出す。


「………………」


「……青だよ? 渡らないの?」


 青年は動かない。


 ぼーっと信号機の光を見つめている。

 

 カッコーカッコーカッコ―


 静かに繰り返し響く音の信号。それは決して大きい音ではない。車が近くを通れば掻き消える程度の大きさ。普段は心地よいとさえ感じていた音が何故か不安を増大させてくる。


「――――」


 青年が渡り始める。

 

 大丈夫。まだ光は青くて、音も鳴り止むことはない。


 無限に思える時間をかけて彼は地面に敷かれた白いはしごを踏み外すことなく渡り切る。


 そうして、オバケの私の方が震えるぐらい怖がらせられて男の子は帰っていった。


「……よかった」


 無いはずの心臓がバクバクと早まっていた感覚がまだ抜けない。やっぱり、まだ生きているのかもしれないと思ったぐらい。


 黒い闇に確かに彼の背を見失って、やっと一息つくことが出来た。


「何か嫌なことでもあったのかな? どうかな?」


 お月様に聞いてみる。


 返事は皆と同じようになくて、少し笑ってしまう。

 

 次の日もその次の日もそのまた次の日にもあの青年はこの横断歩道を渡りに来ることはなかった。どれだけ私が望んでもその結末を知ることは多分一生出来ない。


 少し、……結構寂しいと思ってる。だけど、私に出来ることは何もなくて。


 だから、彼が元気で過ごしていることを願って今日も朝から皆に声をかける。


「おはよう!」


 掛け続ける。




 



 ある春の温かな日、ふといつかの下校道を通ってみることにした。見慣れた道。間違えることはない。どれだけ辺りの姿が変わろうとも、面影が消えることはない。導かれるように進んでいく。


「今日はハルミちゃんの家に行っていい?」

「いいよー」


「明日カレーだって」

「え、ホント!? やったー」

「俺朝ごはん少なめにしてもらおー」


 時間はお昼を少し過ぎた頃。丁度学校から帰ってきた小学生達とすれ違う。


 周りを気にすることのない大きな声。嫌な気分にはならない。むしろ逆にいい思い出を引き出してくれる。


 小学校と中学校の時は楽しかった。給食もいっぱいお代りしたし、成績も良かった。毎朝が待ち遠しかったものだ。もっと具体的な出来事はというと……思った通り出てこない。宝石のような記憶に限って奥深くにしまい込まれているから。


 それに対して嫌な思い出は簡単に忘れることが出来ない。ちょっとしたことで思い起こされる。この道のように。


 高校時代俺は学校でいじめを受けていた。物がなくなる、無視される、影で表で笑われる。まだ物理的に攻撃されなくてよかった。

 

 よくはないが、そこまでされていたら耐えられなかった。一歩を踏み出せてしまっていたと思う。ギリギリで踏みとどまれたあの日の夜、俺は両親に全てを打ち明けた。事は思った以上に速かった。すぐに転校の手続きが始まり、一週間もすれば友達ができて、遊びにも出かけるようになっていた。


 子供は小さな世界で生きていると思い込みがちだ。あんな簡単な方法で助かることだったのに、今思えば自分が馬鹿らしい。


 ではなぜ、そんな思い出を想起させる道を歩いているのか。


 それは――――。


「あった」


 目の前にあるのは道の邪魔にならないように立てかけられた一つの工事看板。これから一週間後に行われる工事について詳細に書かれていた。何ができるのだとか、通行止めの期間とか、新たに設置される横断歩道の位置だとか……。


 別に深い思い入れはなかった。


 ただ毎日を始めるだけの道だ。それも飛び切り最悪な日々を過ごすための。


 ――だけど。



 この道を、この横断歩道を渡った時だけ心が軽くなった気がしていた。誰かに背中を押されるような、抱きしめられているみたいな、温かな何かが自分に降り掛かっている気がして、俺は毎日信号機を見つめていた。


 あの時、俺をずっと見続けていてくれたのはそれだけだったから。

 あの日、俺が青信号を渡れたのはそのおかげだったから。


 工事でこの場所にある横断歩道と歩行者用の信号機はなくなってしまう。


 だから最後にお礼を言いに来た。自分が助かるための勘違いだったのかもしれない。それでも、助かっていたことは事実だった。


 カッコーカッコーカッコ―


 信号の色が変わる。


 一歩を踏み出して、渡っていく。嫌な思い出も、誰も、車もこの歩みを止めることは出来ない。


「ありがとう。さようなら、信号機さん」




「……うーん。ちょっと、チガウ」


「――?」


 振り返っても誰も居ない。


 気の所為だ。ただの空耳。どこからか流れてきた風がそう聞こえただけ。


 カッコーカッコーカッコーカッコー


 皆が渡りきった横断歩道は誰も居なくなっても決められた最後(時間)までその光と音を止めることはない。


「行ってきます」



 

『いってらっしゃい』




読んでいただきありがとうございました。

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