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残像の向こう側

衰退した心の筋肉

二度と見ることの出来ない笑顔


この2つのお題での作品です。



 防湿庫の奥で眠るその黒い塊は、まるで爆弾のように見えた。



 触れれば、爆発する。




 平穏に塗り固められた私の日常が、粉々に吹き飛んでしまう。




 宗一は、リビングのソファで背を丸め、逃げるように文庫本の活字を目で追っていた。




 けれど、玄関先での賑やかな声は、分厚い扉も、宗一の頑なな拒絶も、いともたやすくすり抜けてくる。




「おじさん、お願い! 一枚だけでいいの!」




 廊下から顔を覗かせたのは、艶やかな振袖に身を包んだ姪の美海だった。




 朱色に金糸の刺繍。


かつて、妻が好んで着ていた着物だ。




 それを見た瞬間、宗一の胸の奥で、何かがきしりと音を立てた。




「……写真館で撮ればいいだろう。プロが綺麗に撮ってくれる」



 視線を本に戻し、努めて平坦な声で返す。




 これが、この三年間で身につけた処世術だ。




 心を動かさない。


 過去を振り返らない。


そうすれば、あの「二度と見ることのできない笑顔」を思い出して、呼吸ができなくなることもない。




「写真館のは、なんか違うの。私は、おじさんに撮ってほしいんだよ」




 美海は譲らない。




 その真っ直ぐな瞳が、痛い。




 かつて、「宗一さんの撮る写真が一番好き」と言って笑った、妻の瞳にあまりにも似ていたからだ。




 長い沈黙の後、宗一は諦めにも似た深いため息をついた。




 文庫本を閉じる。




 その動作が、止まっていた時間を動かす合図のように思えた。




「……一枚だけだぞ」




 宗一は重い腰を上げ、防湿庫の扉を開けた。




 ひんやりとした空気が流れ出す。




 愛機だった一眼レフを取り出すと、ずしりとした質量が掌に食い込んだ。



 

 重い。

 



 以前は体の一部のように軽かったはずのそれが、今は鉛の塊のように感じる。




 「撮る」という行為に必要な心の筋力が、すっかり衰えてしまっている証拠だった。




 庭に出ると、春の陽気が満ちていた。




 満開の桜が、風に揺れている。




 美海が桜の木の下に立ち、少しはにかんだようにこちらを見た。




 宗一はファインダーを覗いた。




 世界が切り取られる。




 レンズを通した光景は、肉眼で見るよりも残酷なほど鮮明だ。




 ピントリングを回す指が震えた。




 ぼやけた視界の中で、朱色の着物が揺れる。

 



(……陽子)




 無意識のうちに、亡き妻の名前を呼んでいた。




 ファインダーの向こうに、美海ではなく、あの日、同じ場所で笑っていた妻の姿を探してしまっている。




 けれど、ピントを合わせれば合わせるほど、そこにいるのは妻ではないという現実が突きつけられる。




 当たり前だ。彼女はもういない。




 二度と、あの柔らかい笑顔を見ることはできない。




 胸が苦しい。




 肺が圧迫され、酸素がうまく入ってこない。




 カメラを構える腕が、悲鳴を上げている。




 もうやめたい。


シャッターなんて切れない。




 その時。




「……おじさん、怖い顔してる」




 レンズの向こうで、美海が困ったように眉を下げていた。




 緊張で強張った顔。




 不安げに揺れる瞳。




 ハッとした。




 私は今、誰を見ている?




 過去の幻影か?




 それとも、晴れの日を迎えて、不安と期待に胸を膨らませている、目の前の姪か?




 宗一は、ファインダーから一度目を離し、深呼吸をした。




 春の匂いが、肺の奥まで染み渡る。




 心の筋肉が軋む音がする。




 痛い。でも、動く。




 もう一度、ファインダーを覗く。




 今度は、妻の面影を探さなかった。




 ただ、そこにいる美海だけを見つめた。




「……美海」




 錆びついた喉から、声を絞り出す。




「大人になったな」




 それは、写真家としてではなく、一人の伯父としての、偽らざる本音だった。




 美海の顔が、ぱあっと輝いた。




 緊張が解け、くしゃりとした、年相応のあどけない笑顔が弾ける。




 それは妻の笑顔とは違う。




 けれど、今、この瞬間にしか存在しない、眩しい命の光だった。




 カシャッ。




 意識するよりも早く、人差し指が動いていた。




 乾いたシャッター音が、庭の空気を震わせる。




 それは、止まっていた私の心臓が、再び鼓動を打ち始めた音のように響いた。




「……撮れた?」



「ああ。いい写真だ」




 カメラを下ろすと、どっと疲労感が押し寄せた。




 肩は凝り、腕は痺れている。




 胸の奥が、熱を持ってじんじんと疼いている。




 ひどい筋肉痛だ。




 明日にはきっと、もっと痛むだろう。




 けれど、宗一は液晶画面に映る美海の笑顔を見つめながら、ほう、と白く長い息を吐いた。

 悪くない痛みだった。



 

 失った笑顔は戻らない。




 でも、新しい笑顔を、この目に焼き付けることはできる。




 風が吹き、桜の花びらが一枚、黒いレンズの上に舞い降りた。




 宗一はそれを優しく指で払い落とすと、久しぶりに、カメラのグリップを強く握り直した。



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