改札越しのリスタート
受け渡し 日常 再開
この3つのお題での作品です。
金曜日の午後七時。
駅の改札前は、一週間を終えた安堵と、週末への期待を含んだ熱気で溢れかえっていた。
僕は柱の陰に立ち、行き交う人々をぼんやりと眺めていた。
手には、少し嵩張る紙袋を一つ提げている。
中身は、グレーのニットマフラーだ。
一ヶ月前、この駅で「さよなら」を言った時に、彼女――美咲が僕の部屋に忘れていったものだ。
そして彼女は、僕の部屋の合鍵を持っている。
(……早く終わらせよう)
郵送でも良かった。ポストへの投函でも良かった。
けれど、なんとなく「手渡し」でなければ、本当の意味で区切りがつかない気がしていたのだ。
この一ヶ月、僕の日常は、どこか薄い膜が張ったように停滞していたから。
「聡」
不意に名前を呼ばれ、心臓が小さく跳ねた。
顔を上げると、人波を縫って美咲が歩いてくるところだった。
髪が少し短くなっている。
僕の知らないコートを着ている。
たった一ヶ月。されど一ヶ月。
「……悪いな、わざわざ」
「ううん。私も、返さなきゃって思ってたから」
彼女は淡々とそう言い、ハンドバッグから小さな茶封筒を取り出した。
僕は代わりに、紙袋を差し出す。
「これ、マフラー。クリーニング、一応出したから」
「あ、ありがとう。……はい、これ、鍵」
二つの荷物が、空中で交差する。
一瞬だけ指先が触れたが、そこにはかつてのような熱も、電流のようなときめきもなかった。
ただ、物質の移動があっただけだ。
僕の手のひらに、小さな金属の重みが戻ってくる。
それは、「君の部屋にはもう誰も入らない」という冷徹な事実の証明であり、同時に「自由」の証でもあった。
「中身、確認する?」
「ううん、いいよ。……信用してるし」
美咲は紙袋を抱え直すと、ふっと表情を緩めた。
それは、別れ際に見せた涙顔でも、付き合っていた頃の甘えた顔でもない。
休日に街ですれ違った友人に向けられるような、さっぱりとした笑顔だった。
「それじゃ、ね」
「ああ。元気で」
彼女が踵を返す。
ヒールの音が、雑踏の中に混じって遠ざかっていく。
僕はその背中を数秒だけ見送り、そして反対側の出口へと向き直った。
ドッ、と音が流れ込んでくる気がした。
アナウンスの声、電車の走行音、誰かの笑い声。
それまで僕の耳を塞いでいた「未練」というフィルターが外れ、世界の解像度が一気に上がったようだった。
腹が、減った。
そういえば、今日の昼から何も食べていない。
駅前のスーパーで惣菜を買って帰ろうか。
それとも、久々に一人でラーメン屋に寄ろうか。
考えることは、ひどく些細で、自分本位なことばかりだ。
けれど、それが心地よかった。
僕はポケットの中で、取り戻した鍵を一度だけ強く握りしめた。
冷たい金属が、体温で徐々に温まっていく。
「……よし」
僕は雑踏の中へと足を踏み出した。
止まっていた僕の時計が、カチリと音を立てて、再び時を刻み始めた。




