ゴースト・シンガーの商談
電話 ルッキズム 社畜
この3つのお題での作品です。
プルルルル、プルルルル。
無機質なコール音が、夜のオフィスに反響している。
蛍光灯の白い光が、私の脂ぎった額と、安物のスーツのテカリを無慈悲に照らし出していた。
「……はい、佐伯です」
受話器の向こうから、女性の不機嫌そうな声が聞こえる。
ターゲットは、美容業界の女帝と呼ばれる難攻不落の社長だ。
私は、猫背だった背筋をピンと伸ばし、丹田に力を込めた。
瞬間、私の喉のスイッチが切り替わる。
「夜分遅くに恐れ入ります、佐伯様。株式会社アークの井口でございます」
口から紡ぎ出されたのは、鏡の中の冴えない中年男とは似ても似つかない、深みのある、磁力を帯びたバリトンボイスだった。
声帯だけが、私に残された唯一の武器だ。
この「音」だけが、私の醜い容姿というノイズを除去し、相手の脳内に「理想のビジネスパートナー」の像を結ばせる。
『あら……いいお声ね』
受話器越しに、空気が緩む気配がした。
勝てる。
私は、言葉の魔術師となって畳み掛けた。
論理的なメリット提示、誠実な共感、そして微かな色気を含んだ提案。
十分後、彼女の声は完全に陶酔していた。
『素晴らしいわ、井口さん。ぜひ契約を進めたいの。……ねえ、今からビデオ通話、繋げるかしら?』
心臓が、早鐘を打った。
ビデオ通話。それは、魔法が解ける呪いの言葉。
このシミだらけの顔と、生気の薄い目が画面に映れば、彼女の抱いた幻想は一瞬で崩壊する。
「おい、井口」
背後から、課長が私の肩を叩いた。
その目は、獲物を狙うハイエナのように冷たく光っている。
課長は顎で隣の席をしゃくった。
そこに座っていたのは、レイジだ。
長身、小顔、白い歯。まるで雑誌から抜け出してきたような美青年だが、中身は空っぽで、今月も売上はゼロ。
「レイジ、席を代われ。井口、お前はカメラの死角に入れ」
拒否権などない。
私は社畜だ。
会社の利益が、私の尊厳よりも優先される。
私は無言で席を立ち、モニターの横、カメラのフレーム外へと追いやられた。
代わりにレイジが座り、完璧な営業スマイルを作り、髪を整える。
「接続します」
画面に、女社長の顔が映し出された。
彼女は、レイジの輝くようなルックスを見て、頬を紅潮させた。
『まあ……! 想像していた以上に、素敵な方ね』
レイジが口をパクパクと動かす。
それに合わせて、私がマイクに向かって声を吹き込む。
「ありがとうございます、佐伯様。お会いできて光栄です」
完璧なシンクロ。
画面の中には、私の知性と、レイジの美貌を兼ね備えた「最強の虚像」が存在していた。
社長はその虚像に熱っぽい視線を送り、私はその視線を、モニターの横から盗み見ることしかできない。
私の言葉で彼女が笑うたび、レイジが得意げに微笑み返す。
私の論理で彼女が納得するたび、レイジが自信満々に頷く。
(俺だ。喋っているのは俺だ。この契約を取ったのは、俺の能力だ)
心の中で叫んでも、それは誰にも届かない。
私はただの音声装置。
美しい肉体を動かすための、黒子のシステム。
『契約書、すぐに送ってちょうだい。……ふふ、今度、食事でもいかが?』
「喜んで。貴女のような方と過ごせる時間は、何よりの報酬です」
私が紡いだ口説き文句に合わせて、レイジがウインクをした。
それが決定打だった。
通話が切れた瞬間、オフィスに拍手が沸き起こった。
「やったなレイジ! さすがイケメン、最後の一押しが効いたぞ!」
「社長、メロメロだったじゃないか。お前、昇進あるぞ」
課長がレイジの肩を抱き、同僚たちが彼を囲む。
レイジは「いやぁ、緊張しましたよ」と、爽やかに頭を掻いている。
私は、マイクのスイッチを切り、そっと席を離れた。
誰からも、「よくやった」とは言われない。
喉が、カラカラに乾いていた。
トイレの個室に入り、鍵をかける。
鏡を見る気にもなれなかった。
私は便座に座り込み、スマホの黒い画面に映る、疲れ果てた男の顔を見下ろした。
「……契約成立、おめでとうございます」
小声で呟いてみる。
狭い個室に、無駄に良い声が響いた。
その声は、どこまでも深く、そして空虚だった。
私はネクタイを少しだけ緩め、深く息を吐き出し、またあの光の当たらない席へと戻るためにドアノブに手をかけた。




