シルバーバックのシェイカー
ゴリラ お酒
この2つのお題での作品です。
重厚な木の扉を押し開けると、そこは薄暗い洞窟のようだった。
ジャズのピアノが、低い水面を這うように流れている。
カウンターの向こう側。
グラスを磨く白い布が、あまりにも小さく見えた。
「……いらっしゃいませ」
地響きのような低音が、私の鼓膜を震わせる。
そこに立っていたのは、人間という枠を少しばかりはみ出したような、圧倒的な巨漢だった。
広い肩幅、分厚い胸板、そしてワイシャツの袖から覗く、剛毛に覆われた丸太のような腕。
彫りの深い顔立ちと鋭い眼光は、動物園の柵の向こうにいる「森の賢者」――シルバーバックのゴリラを彷彿とさせた。
私は一瞬、回れ右をして逃げ出したくなった。
けれど、今日の私は、逃げる気力さえ残っていなかった。
プロジェクトの中止。
そして、スマホに残された「別れよう」という短いメッセージ。
私は逃げるように、一番端のスツールに腰を下ろした。
「……何になさいますか」
マスターが、太い眉の下から私を覗き込む。
その視線に射すくめられ、私は震える声で言った。
「なにか……優しいものを。甘くて、何も考えなくていいやつ」
ひどいオーダーだ。
けれど、マスターは眉一つ動かさず、無言で頷いた。
彼が冷蔵庫から取り出したのは、瑞々しい白桃だった。
私の顔ほどもありそうな巨大な掌に、ピンク色の果実がちょこんと乗っている。
彼は、その太い指先で、オモチャのようなペティナイフをつまみ上げた。
(潰してしまうんじゃないかしら)
そんな私の不安をよそに、ショーは始まった。
スッ、スッ、スッ。
刃先が、桃の曲面を滑るように撫でていく。
果肉を一ミリも傷つけることなく、薄い皮だけがリボンのように剥がれ落ちていく。
その手つきは、外科医の手術よりも正確で、そして赤子を撫でるように慈愛に満ちていた。
クラッシュアイスを入れたミキシンググラスに、桃のピューレと、冷えたスパークリングワインが注がれる。
彼は、バースプーンを指に挟んだ。
ソーセージのように太い指の間で、銀色の螺旋がくるくると踊る。
炭酸を飛ばさないよう、しかし果肉と酒が完全に融合するように。
「……お待たせしました」
コト、と目の前に置かれたのは、淡い桜色をした『ベリーニ』だった。
フルートグラスの表面に、繊細な水滴がついている。
私はグラスを手に取り、口に運んだ。
「……っ」
思わず、小さく息が漏れた。
優しい。
完熟した桃の芳醇な香りが、鼻腔を優しく包み込む。
舌の上で弾ける微細な泡。
アルコールの角は一切なく、ただ果実の甘みと、冷たい幸福感だけが喉を滑り落ちていく。
張り詰めていた心の糸が、プツンと切れた気がした。
視界が滲む。
涙がグラスの中に落ちそうになり、私は慌てて顔を伏せた。
「……美味しいです」
鼻声でそう告げると、カラン、と氷の音がした。
「果物は、正直ですから」
マスターが、低い、けれど温かい声で言った。
「優しく扱えば、優しさで返してくれます。……人間も、そうありたいものですが」
顔を上げると、強面の巨人が、はにかむように口の端を吊り上げていた。
その顔は、ちっとも怖くなかった。
むしろ、群れの仲間を静かに見守る、頼もしいリーダーの笑顔だった。
私は涙を拭い、残りのカクテルを飲み干した。
空っぽになった胃袋と心に、温かい勇気が満ちていく。
「ごちそうさまでした。……また、来ます」
席を立つと、マスターは深々と頭を下げた。
その広い背中は、どんな嵐からも守ってくれる岩山のように見えた。
外に出ると、夜風が少しだけ優しくなっていた。
私はヒールを鳴らし、しっかりと前を向いて歩き出した。




