五〇〇キロの隣人
パソコン 救急車
この2つのお題でハッピーエンドの作品です。
カチッ、カチッ。
静まり返ったリビングに、マウスをクリックする乾いた音だけが響いている。
七十二歳、独り暮らし。
私の世界は、夜になるとこの二十四インチの液晶モニターの中だけに集約される。
「あー、また負けた! 修さん、強すぎだって」
ヘッドセットから、若々しい悔しがり声が聞こえてきた。
スピーカーの向こうにいるのは『リュウ』。
五〇〇キロ離れた街に住む、二十代の青年だ。
顔も見たことがない。
本名も、昨年末に年賀状を交換するまでは知らなかった。
けれど、毎晩こうしてオンライン将棋を指す彼が、今の私にとって最も親しい「隣人」だった。
「ふふ、まだまだ読みが甘いな。……さて、茶でも淹れてくるか」
私はマイクに向かってそう言い、椅子から立ち上がろうとした。
その時だった。
ドクンッ!!
心臓を、焼けた鉄杭で貫かれたような衝撃。
「あ、ぐ……ッ」
視界がホワイトアウトする。
膝の力が抜け、私はそのまま横倒しに床へ崩れ落ちた。
ガシャーン!
飲みかけの湯呑みが割れ、熱いお茶が頬にかかる。
だが、熱さを感じる余裕すらない。
胸を鷲掴みにされるような激痛と、急速に冷たくなっていく指先。
息が、吸えない。
(……電話)
手を伸ばそうとするが、身体は鉛のように重く、ピクリとも動かない。
スマホはダイニングテーブルの上。遠すぎる。
意識が泥の中に沈んでいく。
ああ、このまま誰にも知られず、冷たくなっていくのか。
孤独死。
その言葉が、現実の重みを持ってのしかかる。
その時。
『……修さん? 今の音、なに?』
床に転がったヘッドセットから、微かな声が聞こえた。
私は、必死に喉を震わせようとした。
だが、口から出るのは「ヒュー、ヒュー」という、壊れたふいごのような呼吸音だけ。
『おい、どうしたんだよ。冗談だろ? 修さん!』
リュウの声色が、焦りを含んだものに変わる。
私の荒い呼吸音が、高性能なマイクを通じて彼に届いているはずだ。
『倒れたのか!? ……くそっ、待ってろ!』
ヘッドセットの向こうで、椅子を蹴る音、何やら早口で叫ぶ声が聞こえる。
(無理だ、リュウ君。君は遠すぎる……)
薄れゆく意識の中で、私は諦めかけていた。
パソコンのモニターだけが、天井を青白く照らしている。
将棋盤の画面。「王手」の文字。
まだ、ゲームは終わっていないのに。
『もしもし! 救急ですか! 友人が倒れてるんです! 住所は――』
ヘッドセットから、彼の叫び声が聞こえた。
住所。そうだ、彼は知っている。
たった一度交換した、年賀状の宛先を。
『修さん、聞こえてるか!? 今、そっちの救急車呼んだから! 絶対に寝るなよ! 目を開けてろ!』
その必死な声は、どんな薬よりも強く、私の意識を現世に繋ぎ止めた。
五〇〇キロ離れた場所からの、見えない手。
それが今、私の胸ぐらを掴んで、死の淵から引きずり上げようとしている。
ピーポー、ピーポー……。
遠くから、微かにサイレンの音が聞こえた。
それは次第に大きくなり、やがて家の前で止まった。
赤色の回転灯が、窓の外で激しく明滅し、青白いモニターの光と混ざり合う。
ドンドン! と玄関を叩く音。
人の声。足音。
『修さん! 救急車、着いたろ!? 生きてるよな!?』
ヘッドセットから響くその声を最後に、私は深い安堵と共に、意識を手放した。
消毒液の匂い。規則的な電子音。
重い瞼を開けると、そこは白い天井だった。
「……気がつかれましたか」
看護師が覗き込む。
助かったのだ。
私は、サイドテーブルに置かれた自分のスマホに目をやった。
震える指で画面をタップする。
SNSのメッセージアプリに、一件の通知。
『無事か? 落ち着いたら連絡くれ。あの勝負、まだ終わってないからな』
ぶっきらぼうな文面。
けれど、そこには血の通った温かさがあった。
私は酸素マスクの下で、小さく笑った。
目尻から伝った涙が、枕に吸い込まれていく。
(ああ、負けたよ。……完敗だ)
この借りを返すには、随分と長生きしなくてはならないだろう。
私は「ありがとう」と打つ代わりに、スタンプを一つ送った。
『対局再開求む』
五〇〇キロ先の隣人は、きっと画面の前で、ニヤリと笑っているに違いない。




